仏さまのお育てによって仏のいのちを賜ります。

浄土真宗とは、
『仏説無量寿経』という経典のみ教えです。

そこには、
阿弥陀さまのお救いが説かれております。

そして、
阿弥陀さまが放っておけなかった私のすがたが説かれております。

その内容は、
2500年前に説かれたと思えないほど、
今を生きる私たちが共感できる内容ばかりでありました。

うたたあひ承受するに父の余せる教令をもつてす。先人・祖父もとより善をなさず、道徳を識らず、身愚かに神闇く、心塞がり意閉ぢて、死生の趣、善悪の道、みづから見ることあたはず、語るものあることなし。吉凶・禍福、競ひておのおのこれをなすに、ひとりも怪しむものなし。

そして、子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのであります。もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳を知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもありません。
善いことが起きるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもありません。

親子は似てくる!環境が人間を育ててゆきます。

人は、気づいたら親と同じ口癖になっていたり、同じような行動をするようになっていくそうです。

生まれてきたら、無意識に「一体どうやって生きていったらいいのか?」という考えが生じます。

それは、身近な人に教わるしかありません。

身近な人を手本とするより他ありません。

お参りに行った時に、「親がきちんと靴を揃える家庭は、子どももきちんと揃えてるな〜」ってよく思ってました。

職業柄、お仏壇に向かう姿勢も強く感じます。

これは「お坊さんあるある」ですが、親がお仏壇に向かう姿はそのまま、子どもが合掌している時の姿勢や雰囲気に反映されております。

僕がお寺の役僧としてはたらいていた時に出会った方がよく言っていた言葉があります。

「子どもを見ると、親の性格と、親の愛情がわかるよ」

その方は、小学校でも子ども達の相談を受ける立場として勤務されておられた方でありました。

その方には、

「子どもを責めるのではなく、自分が子どもと同じ目線で向き合えていたか考えることが大切」

といったことをたくさん教えていただきました。

親が間違えていたら子どもは必ず間違えるそうです

『仏説無量寿経』に次のように示されております。

 

うたたあひ承受するに父の余せる教令をもつてす。先人・祖父もとより善をなさず、道徳を識らず、身愚かに神闇く、心塞がり意閉ぢて、死生の趣、善悪の道、みづから見ることあたはず、語るものあることなし

 

子どもは父親の背中を見て育ちます。

その父親も、さらにご先祖も、「さとり」を知りません。

自分がなぜ「迷い」の中にいるのか?
何が善いことと悪いことなのか?

そのようなことを、見本がいないために知れませんし、伝えられる方もいらっしゃいません。

まぁ現代では、親が当たり前に子を裏切り、自分の都合で餓死させたり、自分の都合で暴力を振るうという時代ですから、「親子関係」というものは、あってないようなものかも知れません。

育てられたように人は育ちます。

みなさまは、狼に育てられた少年のお話をご存知でしょうか?

狼の群れと生活しているところを捕獲したのですが、人としての生き方を学んでいただこうとしても、生肉しか食べませんでした。

四つん這いでしか歩けず、夜になると吠える修正は無くならなかったそうであります。

狼に育てられると、心は狼になるんですね。

私たちが育てられる時も、親に似ていきます。

あるいは、親以上に尊敬していた方々に似ていきます。

しかしそれだけではありません。

仏様にならせていただく人生を歩む私たちは、仏様のお育ての真っ只中であります。

仏様のお育てがなければ仏様になれません。

でも、仏様になろうという心が湧いてくるどころか、この世での楽しいことに没頭してしまうのが私たちのすがたではないでしょうか?

そんな私を見捨てない阿弥陀さまという仏様だからこそ、本当の尊さを知らされます。

その阿弥陀さまが私たちのもとに至り届き、はたらき続けておられるすがたが、

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

みなさまの優しいシェアをありがとうございますm(__)m