「かわいそう」

「お坊さんの法話」って、

どのようなイメージでしょうか?

「むずかしいお話」

「おもしろくないお話」

そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。

話を聞くことや、

長い文章を読むことに、

疲れを感じる方もおられるでしょう。

ですので、

今ブログでは、

「一口法話」として、

主観的な文章を書いていきます。

みなさまといっしょに、

「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」

そう思えたら素敵だなぁと思います。

合掌

「かわいそう」って言葉を使うことも、使われることも個人的にはとても嫌なんです

みなさまは、「かわいそう」という言葉にどのようなイメージをお持ちでしょうか?

「かわいそう」と声をかける様子を想像される方がいらっしゃるかも知れませんが、ここでは「かわいそう」と声をかけられたことを、想像してくだいただければと思います。

私は、嫌な気持ちがします。

なんとなく見下されたような気分になります。

 

  • 世間ではいのちを終えていく時・・・
  • 誰かが何かに失敗した時・・・
  • 目標を叶えられなかった時・・・

そんな時に、当たり前のように「かわいそう」という言葉を耳にします。

この言葉を発した方には、

「どうしてもあなたと変わってあげられない」
「苦しみを抱える人生、しんどいよね」

そのような、寄り添う気持ちがあるのかも知れませんが、個人的には「かわいそう」という言葉はあまり好きではありません。

かわいそう」という言葉に、「私と他人を無意識に切り離している」気持ちを感じることがあります。

そして、「かわいそう」という言葉を誰かに発した時、その方の人生が「かわいそう」なものになってしまうんじゃないかと思うことがあります。

今、いのちをいただき、阿弥陀さまに出遇わせていただいている私たちです。

誰一人として「かわいそう」ではないはずです。

確かに、どれほど努力しても抜け出せない迷いの中におられる方から見れば、「甘い考え」のように感じることがあるかも知れません。

「人生は耐えていかないといけない」

そう、生まれた時から感じておられる方もたくさんおられます。

生まれる環境は選べないつらさを抱えておられる方もたくさんおられます。

「なんで私だけ??」

そう叫びたい日々を送られる方もいらっしゃると思います。

誰もが違った環境で生きていき、誰もが違った悩みを持つのが人生です。

みんな別々です。

でも、その人生の中で、たった一つだけ変わらないことがあります。

それは、いのちをいただいていること。

阿弥陀さまに出会わせていただいていること。

この事実は、誰もが共通しています。

本当は、みんな同じなんです

他人様のことを「かわいそう」と思ったり、自分自身のことを「かわいそう」に感じる時、同じ阿弥陀さまに出遇わせていただいており、同じようにお念仏を恵まれているという事実が、今を生きていく心の支えになるのではないでしょうか。

人のつらさに遭遇した時、「かわいそう」という言葉を発するのではなく、その相手の気持ちに寄り添いつつ、阿弥陀さまに出遇わせていただいている事実だけは変わらないね。

そのような気持ちで他人と接していきたいものです。

浄土真宗を聞かせていただく者の行き方は、「かわいそう」という言葉で、私と他人を切り離してしまい、他人の人生を「かわいそう」なものにするのではないと思います。

「あなたも私も同じだね」

そのように、気持ちに寄り添い、気持ちを受け止め合える。

そこに、阿弥陀さまのお慈悲の御心があらわれてくるのだと思います。

そのような教えに、ともに出遇わせていただいてよかったですね。

一緒にお念仏称えつつ、阿弥陀さまにお礼申し上げる生涯を送らせていただきましょう。

みなさまの優しいシェアをありがとうございますm(__)m