不完全な私と知らせていただく

「お坊さんの法話」って、

どのようなイメージでしょうか?

「むずかしいお話」

「おもしろくないお話」

そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。

話を聞くことや、

長い文章を読むことに、

疲れを感じる方もおられるでしょう。

ですので、

今ブログでは、

「一口法話」として、

主観的な文章を書いていきます。

みなさまといっしょに、

「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」

そう思えたら素敵だなぁと思います。

合掌

みなさまは、ポロっと愚痴がこぼれることはありませんか?

何もかも思い通りにいく人生ならば、愚痴はないかも知れません。

しかし、「思い通りにならない」のが人生であります。

人様への感謝を大切に生活していても、無意識にポロっと愚痴がこぼれてしまうのが人生であります。

無意識にポロっと出るということは、それが本音なんでしょうね。

いかり、はらだち、そねみ、ねたみの心が止まることのない人間の悲しい性根を、私自身のすがたから感じることがあります。

私は、そんな人間の性根も、浄土真宗に出遇わせていただくまで感じられない人間でした。

浄土真宗のお話を聴聞していると、「自分の不完全さ」を知らされていきます。

世の争いは、「自分を完全と思う心」から起こることが多いように感じます。

愚痴もそうです。

 

愚痴がこぼれている時、人間には「おかげさまの心」はありません。

「自分の思い通りにしたい心」ばかりです。

そして、「自分の思い通りにならない時」にポロっと愚痴がこぼれてきます。

 

私たちは、決して完全ではありません。不完全です。

 

なのに、完全だと勘違いし、「私がやってやる」という心が離れません。

自分を完全だと思う心が他者を傷つけ、醜い争いを生み出します。

浄土真宗は、そんな私の不完全さを教えてくれます。

そして、不完全さを知らされつつ、不完全なままの私を「決して見捨てない」という親心があることを知らされます。

不完全さを知らされた時、他者の支えによって生きてこられた私のすがたを知らされます。

その心が、「私は恵まれていたんだ」という、心のゆとりを与えてくれます。

 

愚痴ばかりの私でしたが、愚痴が出ることすら有難いことだった。

 

そう思える時、本当に安らかな人生を歩めるんでしょうね。

愚痴が自然とこぼれる口は、南無阿弥陀仏が自然とこぼれる口であります

阿弥陀さまのすくいそのものである南無阿弥陀仏が、私の元で躍動しているすがたそのものです。

「完全な人間になれよ!」

そう、私に求める阿弥陀さまではありませんでした。

「煩悩抱え、愚痴のこぼれる不完全なあなたそのものを放っておかない」

そう、私にはたらき続けておられる阿弥陀さまでした。

その阿弥陀さまのおすくいを聞かせていただきつつ、

不完全な私と知らされる人生でよかった

そのように思える人生が、他者との共存の中で「おかげさま」と思える人生であり、人の支えを感じ取れる人生です。

変なプライドも捨てて、

不完全な私でありたい!

立派に、完全になろうと頑張る中で、不完全な私と知らされる人生も大切なのではないでしょうか?

だって、その方が人様の話を素直に聞けますもんね〜。

みなさまの優しいシェアをありがとうございますm(__)m