こころの進歩

「お坊さんの法話」って、

どのようなイメージでしょうか?

「むずかしいお話」

「おもしろくないお話」

そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。

話を聞くことや、

長い文章を読むことに、

疲れを感じる方もおられるでしょう。

ですので、

今ブログでは、

「一口法話」として、

主観的な文章を書いていきます。

みなさまといっしょに、

「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」

そう思えたら素敵だなぁと思います。

合掌

「こころの進歩」って??

こころの進歩」とは、大谷光真前御門主が書物の中で使用された言葉であります。

そこでは、次のように示されております。

 

「こころの進歩」とは、ほかの人と比べてよりよい人間になることを言うのではありません。自分がいかにいたらない人間であるか、いかに自己中心的な人間であるかに気づきはじめることを言います。そこに気づけば、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という箴言にもあるとおり、おのずから他人に対して謙虚になります。

『人生は価値ある一瞬』87ページより引用

「自分がいかにいたらない人間であるか、いかに自己中心的な人間であるかに気づきはじめること」を「進歩」という言葉で表現されたところに、私自身、自身のいたらなさを知らされます。

知能は勉強すれば育つものかもわかりませんが、このような人格は育つものではありません。

「自分のいたらなさ」に目を向けて生きようとしないのが人の性であり、むしろ自分の優れているところに目を向けようとします。

また、様々な知能や、人間としての能力を付けることを一般的には「進歩」と言われるのではないでしょうか。

決して「自身のいたらなさ」に目を向けることを進歩とは言いません。

しかし、本当に素晴らしい方に出会わせていただいた時、足りない自分のすがたを知らされます。

そうして、人と人で優劣を無意識に付け合ってしまうものかも知れません。

そもそも、人間とは、自分自身のことを正しく見て判断することはできません。

必ず自分に甘くなってしまいますので、良い点は過大に評価し、悪い点は過小に考えてしまいます。その証拠に、人に褒められたことを人間はよろこび、忘れようとはしないものです。

しかし、人と人を比較して一喜一憂している限り、本当に大切なことに気づかないでしょう。

だって完璧じゃない人間を対象に比較しているのですから。

誰もが煩悩を抱えて生きている人間同士を比較しても、何の意味もありません。

それよりも、本当に尊い仏さまの心を通して自身のいたらなさを知らされる人生を送ることが大切なことを、私は浄土真宗のみ教えを通して知らされました。

私が不完全だから、阿弥陀さまのお誓いがあります

私が完璧ならば、仏さまは必要ありませんでした。

私が完璧ならば、仏さまが「私を救う」などと誓わなくてもよかったのです。

完璧ではなく、いたらない私であり、そのような私だから「決して見捨てない」と誓わずにはおれなかった阿弥陀さまでありました。

いたらないことに恥じらいつつ、周囲に感謝しつつ、

 

「そのような私を放っておかない阿弥陀さまにお互いに出遇えてよかったね」

 

そう笑い合える生涯を送らせていただきましょう。

みなさまの優しいシェアをありがとうございますm(__)m