庄松さんは機転の効く「返し」で阿弥陀さまのお救いを諭されておりました

「阿弥陀さまのお救い間違いなし」

庄松さんの生涯からはそのような気持ちが伝わってまいります。

だからこそ、

自由気ままに生きるのではありません。

阿弥陀さまを無視したり、お仏壇を粗末に扱う方には、

非常に厳しい態度をとることもありました。

元気な時に、なるべく多くの方と阿弥陀さまのお救いをよろこびたい!

元気な今が阿弥陀さまのお救いを聞かせていただく時です。

いつ聞くの?

今です!!

そんなことを知らされる庄松さんの言動があります。

「丈夫なおらさえお参りするに」

ある寺で法座があったので、庄松さんは隣の方を「参らんか」と誘うと、「今日は病気でご無沙汰します」と断られた。すると庄松さんは「丈夫なおらさえお参りするに」と言われました。

病気だから参らないなら、いつ参るんでしょうね。

元気になったらお参りするというなら、お寺はただの雑談をするための場所であります。

実は、お寺とは、ただの集まりの場所ではありません。

お寺の本質は、仏教を聞かせていただく道場であります。

病気の時も、元気な時も関係なく、私へのすくいである仏教を聞かせていただくべきです。

誰一人として、明日のいのちも保証されていませんよね。

だから、阿弥陀さまは私が元気な今、私たちにかかりっきりであります。

そのような「私へのすくい」をお寺で一緒に聞かせていただきましょう。

誰かが来たからお仏壇を綺麗にするのではなく、ずっと大切にしておきたいものです

いつも通りでいいのに、誰かが来たら立派にしようとする。

これは人間誰しも持っている感情ですよね。決して無くならないものだと思いますので致し方ありません。

しかしお仏壇とは、私が他人によく見られるために利用するものではありません。

そのことを知らされる言動であります。

「おらにそんなにあげんでもいいぞ」

松尾村田面に岩造という人がおられました。
幼少の頃、母親が御法義に心をかけておられ、庄松さんも度々行きて泊まっていたのですが、ある時、母親は朝早く起き、お仏壇のお供えをしようと、お花を替えたり、御仏飯を供えたり、何度も庄松さんの枕元を通っていたら、庄松さんは寝床の中より頭をあげて「おらにそんなにあげんでもいいぞ」と言われました。

日頃の忙しい生活の中では、阿弥陀さまのお救いを考えることすらできない私が、阿弥陀さまの御縁に出遇わせていただく場であります。

無理じゃなければ、常にきれいに保っておきたいものであります。

そして、清潔なお仏壇の前で、みんなで阿弥陀さまのお救いをよろこび、語り合うことができれば素敵だなと思います。

阿弥陀さまのお救いは平等だからこそ、全員で一緒に語り合えるし、楽しいんです。

しかし、それも難しかったそうです。

「火事じゃ火事じゃ、後生こそ一大事なれ」

丸亀の塩屋別院の講にて、庄松さんを招待した時、仏法を讃嘆し合う講であるはずが誰一人として話そうとしませんでした。庄松さんも同行も静かにしていたのですが、しばらくして庄松さんは何を思ったのか、鐘をならしつつ、「火事じゃ火事じゃ、後生こそ一大事なれ」と言われました。

講とは、仏法について語り合う場のことであります。

今日まで、浄土真宗のお寺は講の団結力によって支えられてきました。

今も、全国各地に講は存在しているのですが、このような、近所の方で集まって、楽しく仏法を語り合える場が私たちの生活を支え、生活の中に仏さまを感じる尊い御縁になるように思われます。

その講を伝道活動の要とされたのが本願寺派8代目宗主の蓮如上人であります。

蓮如上人の書物を拝読していきますと、何度も講・寄合について「仏法をみんなで語り合う場なので、みんなで仏法について語り合わなくてはダメですよ」といった内容のことを述べられております。

そのような蓮如上人の戒めを念頭に置くと、今回の庄松さんの言動も理解しやすいのではないでしょうか。

庄松さんは、「火事じゃ火事じゃ、後生こそ一大事なれ」という言葉を残されました。

その心持ちは「せっかく、講で集まったのに誰も話さん!決して後生(来世)は他人事ではないぞ!ということを伝えたかったのでありましょう。

いのちが終わる日が決まっており、まだ何十年も先の話であるならば、誰も焦らないのかも知れません。

しかし、人は生まれた瞬間に、いつ終わってもおかしくない人生を歩んでおります。

明日のいのちが約束されている方は一人もいらっしゃいません。

それでも、この世で生きることばかりに執着し、後生(いのちを終えた後のこと)を考えることはあまりありません。

これでは、ゴールの決まっていない人生をただ走り続けているだけであります。

「いのちの終わり」を見つめることによって、そのゴール地点へ向かう。

今、なんのために生きているのか見定めることになるのではないでしょうか。

庄松さんの言動を人生の肝に据えて、仏法を語り合う場を、人生における最も大切な場にしていきたいものであります。

阿弥陀さまのお救いに、どうしても安心できない方を厳しさと優しさで諭されました

「阿弥陀さまのお救い間違いない!」

そう知らされても、知識として身に付けているだけでは安心できないこともあるようです。

「私の救い」として阿弥陀さまのお救いを聞かせていただかなくてはなりません。

そんなことを感じる庄松さんの言動であります。

「食い物のさし嫌いするは病のからだじゃ」「何でも食うのも病のからだじゃ」

高松市に泉屋又平と言う人がおられました。どうもお浄土参りを信じきれない気持ちがあるので、庄松さんに聞こうと、丁重に招待して、座敷へ案内しました。

又平「遠路ようこそようこそ」
庄松「ようはこんぞ。来いと言うたから来たのじゃ。して用事は何のことか」
又平「安心に不審があるで、ご招待した」
庄松「袈裟衣をかけた坊さんのお説教は不足なんか」
又平「いやいや左様な釈ではないが、あなたは無我な同行さんと承り、一口聞かせて貰うたらとぞんじて」
庄松「食い物のさし嫌いするは病のからだじゃ」
又平「しかれば誰のお説教にも変わり目はござりませぬか」
庄松「何でも食うのも病のからだじゃ」

好き嫌いはしたらいかん」しかし、
なんでも食べてもいい訳ではない」と言われております。

お説教は、余計なことを考えて好き嫌いせず、力を抜いてス〜っと聞かせていただきたいものであります。

しかし、「なんでも食べていい」訳ではないようです。これはどのような意味なのでしょうか。

お説教とは、布教使の方々のよろこびであり、阿弥陀さまのお救いに対する味わい聞かせていただきます。

それぞれの方が送られた人生観によって言葉も捉え方も違いがありますので、「同じ味わい」にはならないでしょう。

その布教使さまのお話を聞かせていただき、「わしもそうじゃ、わしもそうじゃ」と受け入れるのではなく、阿弥陀さまの御心は、「この方には、このように伝わってるんだ〜」と、自分へのすくいを他の方がどのように味わっているのか聞かせていただく大切さを庄松さんは示しているのではないでしょうか。

浄土真宗のお説教の特徴でありますが、みんな違った味わい方をされるから、法話のお聴聞を楽しく嬉しく感じます。

日頃の生活のあらゆる場面で阿弥陀さまの御心が味わえることを知らされていきます。味わい方に定まったかたちがない浄土真宗のみ教えを聞かせていただける身でよかったですよね。

みなさまで、いっぱい阿弥陀さまのお救いをお聴聞させていただく生活を送らせていただきませんか?

「それは極楽参りをやめにしたらよい」

筒井利吉が庄松さんに、「同行はん、私は往生の一段にどうも安心ができません。どうしたらよいだろう」と尋ねると、庄松さんは「それは極楽参りをやめにしたらよい」と言われました。

自分の足で極楽浄土に生まれると思うと、必ず壁にぶち当たるのでしょうね。

「参ろう参ろう」と求める心も大切だと思いますが、「参ろう参ろうと考えていた自分こそが、阿弥陀さまの導かれている私であった」と知らせてくれるのが浄土真宗であります。

自分の努力では安心できません。「お浄土参り間違いないんだ」という安心は、信心にのみ恵まれます。

そのことを、次の話で庄松さんは喩えを通して示されております。

「飯を食わずに腹がふくれるか、酒を飲まずに酔うものか。信心をいただかずに有難くなれるか。あまり寒さが強いと酔いがまわらぬわい」

ある同行が、「私はどうも喜ばれぬ。如何すればよいだろう」と尋ねると、庄松さんは、「飯を食わずに腹がふくれるか、酒を飲まずに酔うものか。信心をいただかずに有難くなれるか。あまり寒さが強いと酔いがまわらぬわい」と答えました。

信心をいただかずに有難くなれるか

この言葉に同行の質問に対する答えがありますね。

よろこぶ方法を探すのではありません。

信心一つであります。

ただ阿弥陀さまのお心のままを受け入れるばかりであります

ただ阿弥陀さまのお心を聞かせていただく。

余計なはからいは何の必要もありません。

だって、現に阿弥陀さまは私を救おうと、今もはたらき通しであります。

次の話では、そのことをストレートに言われていますよ。

「浄土参りはおらの話より如来さんの喚び声を聞け」

庄松さんが大川郡造田村の野崎太郎次の家に行き、庭で草履を造ろうとすると、主人は「同行、お前を呼んだのは草履を造りてもらうためにあらず。お浄土参りの話を聞きたい故、呼んだのじゃ」と言うと、庄松さんは「浄土参りはおらの話より如来さんの喚び声を聞け」と返されました。

「南無阿弥陀仏」のままを聞かせていただく。

言い方を変えますと、「南無阿弥陀仏」となって至り届いている阿弥陀さまの「われをたのめ、かならずたすける」という喚び声のままを聞かせていただく。

驚くべきことだと思います。

だって、私の口を通して阿弥陀さまそのものである「南無阿弥陀仏」が出てくるのですから。

お念仏を称えるような殊勝な心を持ち合わせていない私の口から、当たり前のように南無阿弥陀仏が出てきているという、有り得ないことが起こっているのですから。

今、阿弥陀さまのお救いの中に確かにいる私たちであることを知らされます。

そのことを、次の話では庄松さんらしい言動で示されております。

「往生はたしかなりたしかなり。諸仏さんの舌は落ちておらぬ」

伊豫の国の同行が、庄松さんのもとへ「御慈悲について疑いが晴れぬゆえ、お諭し下され」とはるばる訪ねてきました。すると庄松さんはスグに門へ出て屋敷を三編ほど廻り、「往生はたしかなりたしかなり。諸仏さんの舌は落ちておらぬ」と言われました。

文字の通り、「諸仏は嘘をついていないから往生を疑う必要はない」と言われております。

また、「阿弥陀さまの舌」ではなく、「諸仏の舌」と言われておられることを不思議に感じる方がおられるかも知れません。

実は、阿弥陀さまは、自分で自分を褒めたり讃えることはされておりません。あらゆる世界の、あらゆる諸仏が阿弥陀さまの浄土と願いを讃えられております。

阿弥陀さまが建てられた四十八願の中、第十七願に、「あらゆる諸仏に、私の建てた願いを誉め讃えさせよう」と誓われております。

ちなみに、お釈迦さまは、『仏説阿弥陀経』という経典で言いますと、人間界にあらわれた「釈迦牟尼仏」という、諸仏のうちの一人であります。

そして、お釈迦さまは人間界で阿弥陀さまのおすくいを讃えられました。それほどの阿弥陀さまの願いを、今、私たちは当たり前のように聞かせていただいております。

今回の庄松さんの言動は、一見すると馬鹿な真似をされているようですが、「往生はたしかなりたしかなり。諸仏さんの舌は落ちておらぬ」という言葉には、阿弥陀さまへの絶対の信頼と、決して嘘をつかないあ絶対の安心が込められていることがわかると思います。

そして何より、今を生きる私たちに届いていることを思わせていただくべきでしょう。

「後生は阿弥陀さまが助けるぞ」

庄松さんが讃岐木田郡の光静寺に滞在して、仏さまへの御報謝をされていた時、加賀の金沢市より一人の同行が、お浄土参りに疑問があって、わざわざ庄松さんを尋ねて来ました。同行が「お諭し下され」と言っても、庄松さんは「おらは知らぬ知らぬ」と返すだけ。三日間、滞在して尋ねても何の話もしてくれませんでした。加賀の同行は諦めて帰ろうと、寺の門を出て、二三丁も進むと、庄松さんが後より追いかけ、「後生は阿弥陀さまが助けるぞ」と大声で言われました。

私自身、このお話はとても好きです。庄松さんの優しさを感じます。

余計なことを言うのではない。

自分がお取次しようと調子にのるのではない。

「かならずたすける」という阿弥陀さまの御心を聞かせていただくばかり。

あきらめて帰ろうとしたお同行は嬉しかったでしょうね。

きっと、「何の心配もいらんかった。だから庄松さんは、あえて何も言わなかったんだなぁ」という気持ちのまま帰路に着いたと思います。

「後生は阿弥陀さまが助けるぞ」

しんどい時、庄松さんに言われてみたいですね。笑

みなさまの優しいシェアをありがとうございますm(__)m