「阿弥陀さまだけがおらの親じゃ!」そんな庄松さんの気持ちが伝わってきます・・・

庄松さんにとって、

阿弥陀さまという存在は、

超身近な存在でありました。

唯一、甘えてもいい存在なんだよ!

そんな庄松さんの気持ちが、

ここに掲載する言動から、

強く感じることができます。

いつも阿弥陀さまがご一緒くださる安心の人生

下の言動に、「阿弥陀さまがいつも一緒じゃ!」という庄松さんの安心を感じます。

「ばあばあ」

庄松さんは、いつも縄を編んだり草履を作ったりしておりました。
そのような作業中に、御慈悲の心を思い出すと、作業を中止して仏壇の障子を開き、阿弥陀さまに向かって、「ばあばあ」と言っておられたそうです。

「やれやれ、これで親様も涼しかろう」

庄松さんが夏の暑い日に田の草を刈り取り、昼休みにうちで涼んでいた時のお話です。急に何かを思い出し、仏壇の方へ向かい、扉を開けて、阿弥陀さまの絵像を取り出し、竹の先へ結びつけて、「やれやれ、これで親様も涼しかろう」と言われました。

「ここの御本尊さまはよく肥えていらっしゃる」

庄松さんは、仲の良し悪しは関係なく、「一緒にお勤めをせんか?」、「一緒に仏さまのお話をせんか?」と、様々な方の家を訪問しておりました。
まず、その家の御本尊さまに御礼をするのですが、その時に、お花が枯れていたり、御仏飯が供えられていなかったら、「ここの御本尊さまはやせてござる」と悲しみました。しかし、掃除の行き届き、お香の香りが漂っている仏壇を見ますと、にっこり笑いながら「ここの御本尊様はよく肥えていらっしゃる」と大喜びされました。

ここでの「御本尊さま」とは、阿弥陀さまの木像のことであります。

木像の阿弥陀さまや、絵で書かれた阿弥陀さま。あるいは「南無阿弥陀仏」という六字のお言葉となってあらわれている阿弥陀さま。

様々なすがたの阿弥陀さまを見たり聞いたりされることがあるかと思われます。

実は、そのすべてが、

阿弥陀さまのさとりのすがたそのものであります。

「生きとし生けるいのちをすくいとりたい」という願いが完成されたままに、「南無阿弥陀仏」というさとりのすがたをとられたのが阿弥陀さまであります。

庄松さんは、自分の親を見るように、そして、実際に生きておられる方のように阿弥陀さまと接する生涯を送られました。

普通に考えますと、変に感じるような言動かもしれませんが、庄松さんにとっては、「いつでも、どこでも、そばにいてくれる」阿弥陀さまだからこそ、甘えることができる。

人生を生き抜いていく中で、孤独感に襲われることがある私たちに、

「いつでも、どこにいても、一人じゃないと実感させてくれる阿弥陀さまがいるんだよ」

そんな、今を生きる私たちの支えとなってくださる阿弥陀さまがいてくれるという、絶対の安心を教えてくれているようですね。

阿弥陀さまこそ本当の親だから、自由に甘えてもいいんだよ!

阿弥陀さまの前だからこそ、すべてを投げ出して無防備でも大丈夫!

そんな庄松さんの様子が、次の言動から窺われます。

「親のうちじゃ、遠慮には及ばぬ及ばぬ。そういうお前は継子であろう。」

庄松さんが富田村の菊蔵と勝覚寺にお参りに来た時のお話です。
庄松さん、急に本堂で横になりました。菊蔵は驚いて、「本堂で横になってはいかん!行儀が悪いではないか!」と注意しますと、庄松さんは「親のうちじゃ、遠慮には及ばぬ及ばぬ。そういうお前は継子であろう」と言われたそうです。

庄松さんにとっての阿弥陀さまってどのような存在だったと思われますか?

私は、庄松さんにとっての阿弥陀さまとは、「安心して甘えられる存在」だったんだろうなと思っております。

人が人を助ける優しさや、人の苦労を一緒に背負おうとされるすがたには、心が揺り動かされますよね~。人が協力して何かを作り上げたり、助け合うすがたは非常に尊く、美しいものだと思います。

でも・・・
どんなに愛している人でも、何度も何度も裏切られたらどう思うでしょうか。

「私はそれでも信じる!!」

そう言われる方ももちろんいらっしゃるかと思われます。しかし、おそらく、相手を疑う心も生じてくるでしょう。

どんなに愛していても、どんなに安心して任せられても、我慢が積み重なったら悲しさと不安な心に襲われるのが、私たちが生きている世界ではないでしょうか。

決して見捨てることがない!決して放っておかない!そんな救いのはたらきそのものが阿弥陀さまだから大丈夫!

阿弥陀さまは、私たちを見捨てる方ではありません。

どんなに無視しようと、あきらめる方ではありません。

浄土真宗の開祖、親鸞聖人は次のような和讃を残されました。

煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり

阿弥陀さまのおすくいに気付こうとすらしない私であっても、決して諦めることなく、ずっと私をすくおうとはたらき続けておられます。

そんな阿弥陀さまだからこそ、庄松さんは、「親のうちじゃ、遠慮には及ばぬ及ばぬ」と実際に生きておられ、「安心して甘えられる存在」として阿弥陀さまの御心を受け取っていかれたのでしょう。

そんな、安心して甘えられる存在の阿弥陀さまについて、みんなで讃えあうのが庄松さんにとってのよろこびでした。

その事があらわれているのが、下の言動であります。

「皆チヨチヨしてよく遊ぶのう、親様も嬉しかろう」

中山庵の下義平同行の屋敷におられた時、お初、お国、八蔵という三人のお同行に向かって、庄松さんは横になって寝ながら、「皆なんぞ言え言え」と言われました。
すると、お初は「法のままで助かる」と、お国は「参らせてくださることを喜ぶばかり」と、八蔵は「今宵こそ、法の髪剃りでくつろいだ」と、それぞれが阿弥陀さまの御心について述べました。それを聞いた庄松さんは、「皆チヨチヨしてよく遊ぶのう、親様も嬉しかろう」と言われたそうであります。

ここで、「親様も嬉しかろう」と庄松さんは言われましたが、きっと、庄松さん自身が最も嬉しかったでしょうね。

こうして、みんなが一つの事をよろこび合える事こそ、非常に恵まれた事ですよね。

世間では、勝利チームがよろこんだ時、横には悲しむ敗北チームがいる場合があります。

みんなで純粋によろこび合うって、ありそうでありません。

阿弥陀さまの御心だけは、みんなでよろこぶことができます。

それはなぜか。

すべての命に分け隔てなく届いているすくいだからであります。
すべての命が阿弥陀さまの目当てです。

阿弥陀さまは、正式には「阿弥陀如来」と言います。別名はたくさんありますが、その内の一つに、

尽十方無碍光如来」とも言われます。

あらゆる世界に届き、どんなに者であっても、さまたげられることのない光の仏さまです。

そのすくいの光は、悩みや苦しみの絶えない現実の、、到り届いております。

そんな、庄松さんが「親さま」と讃えられた阿弥陀さまの御心を、みなさまで一緒に語り合えたらいいな〜って思います。

みなさまの優しいシェアをありがとうございますm(__)m