妙好人庄松同行について

白い蓮華をこの投稿を象徴する画像にしました。

蓮華は黒い泥の中で、泥に染まることなく美しく白く咲き誇ります。

そのような白い蓮華は、中国ではとても高貴なイメージがあるそうです。

お釈迦さまは、「阿弥陀さまが救ってくれること間違いなしという心のままに、南無阿弥陀仏とお念仏称える人生を送られる方」のことを「まるで白い蓮華」のようであるとたとえられました。

そして、そのような方を親鸞聖人が尊敬された中国の善導大師は、「妙好人」と示されました。

妙なる好ましい人

普通ならありえないほど素晴らしい人」ということであります。

そう讃えていただけるほどの南無阿弥陀仏を、今、お互いに、当たり前のようにいただける人生でよかったですね。

 

 妙好人庄松同行ってなに?

 

妙好人庄松同行とは、寛政11(西暦1799)年に香川県の自然豊かな農村で谷口清七の倅として生まれました。庄松さんは、阿弥陀さまのことを「親様」と呼び、阿弥陀さまがご一緒くださることをただ純粋によろこぶ生涯を送られた方であります。

明治4(西暦1871)年3月4日にお浄土に旅立たれましたが、いのちが終えるその時まで、「阿弥陀さまがいるから大丈夫!」という安心を感じておられたようです。

そのような庄松さんですから、その言動は今も浄土真宗の御門徒に語り継がれております。

庄松さんは、本当は「谷口庄松」という名前であります。しかし、妙好人庄松同行と言われることが多いです。

意味がわからないと、非常にややこしいですね・・・

妙好人庄松同行ってなに?

 

この名前は、「妙好人」、「庄松」、「同行」の三つに分けられます。

庄松って?

「庄松」とは、名前そのものです。

同行って?

「同行」とは、「同じ行」、つまり念仏をともに称える人生を送られる方々のことであります。

「妙好人」って?

「妙好人」とは、親鸞聖人が尊敬された七高僧のひとりである中国の善導大師によって、阿弥陀さまより信心を賜りお念仏称える人生を送られた方々のことを讃えられた言葉であります。

元々は、お釈迦さまが念仏を心の拠り所とされている方を「分陀利華」と言われておりました。

分陀利華」とは、白い蓮華の華のことです。真っ黒な泥の中で、泥さえ美しく見せるように、白く美しく咲く白い蓮華の華であります。

まるで、真っ黒な泥のように、決して美しくなることのない私の心に「南無阿弥陀仏」の功徳が満ちる様子を喩えられています。

気付いたら、無意識に自分を守るために言葉を作ったり、相手を騙すこともあります。自分にとって都合の悪い相手を傷つけることに罪悪感も湧くことがありません。

そんな自己中心な心に、決して変わらず「南無阿弥陀仏」のお言葉となって到り届き、私にはたらいておられる阿弥陀さまであります。嘘ばかりの私の心に、嘘なく「かならず助ける」という願いのままに届いている「南無阿弥陀仏」であります。

そんな、阿弥陀さまの御心を、私の心の拠り所として生きている方々を、「妙好人」すなわち「妙なる好ましい人」と讃えずにおれなかったのが善導大師だったのでしょう。

庄松さんってどんな人?

庄松さんが生きておられた時、実際に出会われた方や、庄松さんのことを聞いてこられた方々の言葉を中心にまとめられた冊子があります。

その冊子を『庄松ありのままの記』といいます。

明治、大正、昭和と、何度も再販されておりますが、庄松さんの性格や、『庄松ありのままの記』の編集者の想いが集約されています。

その言葉から、庄松さんという人について考えていきたく思います。

明治22年版

庄松同行は世に名高く、我讃岐真宗の信者なり。其の人と為り、頑愚無欲にて、娶らず世を見ず。生涯東西に意行して能く人を諭せり。その諭ぶり、質朴、ありのままにして、皆能く自から御法義に適ふて、面白くかつ難在し。爰に松前人徳太郎といふ同行の、はるばる庄松を慕ひ来て、庄松は既に没し、大に残念がり。即ち庄松の友同行たる松崎の伊作、国安の仲蔵、富田のおよし抔より、庄松の話を聞書し、難在がり、面白がり、珍がり、コレゾ本国へ土産にせばやと、筆を大仙華阜氏に乞ふ。華阜氏も亦た兼て庄松の話に感じ居て、幸ひ筆を執り、徳太郎聞書のありのままを、ありのままに書流し、題して『庄松ありのままの記』といふ一小冊子を著せり。徳太郎大に喜び、直ちに大内寒川両郡の有志へ相謀りて、活字版にて二百五十冊を先に既に世に施本せり。人々皆亦た面白がり、難在がり、珍がり、施本忽ち尽ぬるに、猶四方より乞ひ求る者堪からず。因て今度再び大内寒川の有志相謀り、更にさし聿を加へ、上木し、以て御法義を喜ぶの一助とす。されば古語に「岸崩花逆、石堕笋斜」といへるが如く、実にこの書は庄松のありの其ままなれば、或は言の卑劣、或は言の解し難きあるは、乞ふ看者咎るなかれと、一言断り置也。

 

大正12年版

我讃岐の大同行庄松と云ふを知らぬものなし。先に松前の徳太郎と云へる同行、庄松を慕ひ来れど、没後にして残念のあまり、友同行より話を聞き、面白し有難しとて、華岡大仙師に筆を乞ひ『庄松ありのままの記』と云ふを著せり。是亦三十有余年の年月を経るうちに、殆ど絶版となりたりしが、諸方より求め多きに依て、今度再販するにつき、猶其記の中に洩るるあり。庄松の肩衣ゆずられたる、谷澤春次同行の庄松を慕ふこと、徳太郎の如く、友同行の助けを得て、筆を宮本諦順師に乞ふこととせられしが、師も亦この面白き有難き逸話こそ、埋没せんは惜けれとて、幸ひに筆をとり、華岡大仙師の著せし記をここに補するため、続編とはなしたりき。これを看るものは、前編の初めにいへる如く、庄松ありのままなれば、言語の卑劣、亦解し難きことままあれど、それを咎むる事なかれ。
庄松そのまま有のまま
国は讃岐て弥陀は見ぬきて

 

 

昭和3年版

庄松大同行は讃岐国大川郡丹生村字土居に生れて真宗興正派三本松村勝覚寺の門徒でありました。世にも稀なる信者で頑愚無欲にして一生涯独身生活を為し、東西に遊化し能く人々を諭しました。其言ふ處質朴ありのままにして而も御法義に適ひ面白く有難くありましたが、其の一代の言行を先きに華岡大仙師が『庄松ありのままの記』と題して小冊を著はし又さし絵を加へて再販しました。其後谷澤春次同行が其記に洩るる分を編者に委託せられて書きつづけました。近頃京都の書院や其外諸方面は玉石混同で記載したものが発行せられて居りますが、今は多少訂正を加へて軽便なる一小冊として再販しました。聖者の再来で有らふかと伝ふる此の同行の諷刺的の教語は一一肺腑をつくの感があります。学者や智者はさてをき、愚癡蒙昧の私共は此の平易の諭しによりて法徳を味ふことが出来るかと思はれます。世上求道の方々も此の書が歓喜信楽の助縁とならば庄松同行の本意にかなひ発行者の微意も所詮あることと存じます。

 

庄松ありのままの記はなぜ書かれたのか?

明治22年

即ち庄松の友同行たる松崎の伊作、国安の仲蔵、富田のおよし抔より、庄松の話を聞書し、難在がり、面白がり、珍がり、コレゾ本国へ土産にせばやと、筆を大仙華阜氏に乞ふ。華阜氏も亦た兼て庄松の話に感じ居て、幸ひ筆を執り、徳太郎聞書のありのままを、ありのままに書流し、題して『庄松ありのままの記』といふ一小冊子を著せり。徳太郎大に喜び、直ちに大内寒川両郡の有志へ相謀りて、活字版にて二百五十冊を先に既に世に施本せり。人々皆亦た面白がり、難在がり、珍がり、施本忽ち尽ぬるに、猶四方より乞ひ求る者堪からず。因て今度再び大内寒川の有志相謀り、更にさし聿を加へ、上木し、以て御法義を喜ぶの一助とす。

大正12年

是亦三十有余年の年月を経るうちに、殆ど絶版となりたりしが、諸方より求め多きに依て、今度再販するにつき、猶其記の中に洩るるあり。庄松の肩衣ゆずられたる、谷澤春次同行の庄松を慕ふこと、徳太郎の如く、友同行の助けを得て、筆を宮本諦順師に乞ふこととせられしが、師も亦この面白き有難き逸話こそ、埋没せんは惜けれとて、幸ひに筆をとり、華岡大仙師の著せし記をここに補するため、続編とはなしたりき。

昭和3年

其の一代の言行を先きに華岡大仙師が『庄松ありのままの記』と題して小冊を著はし又さし絵を加へて再販しました。其後谷澤春次同行が其記に洩るる分を編者に委託せられて書きつづけました。近頃京都の書院や其外諸方面は玉石混同で記載したものが発行せられて居りますが、今は多少訂正を加へて軽便なる一小冊として再販しました。
世上求道の方々も此の書が歓喜信楽の助縁とならば庄松同行の本意にかなひ発行者の微意も所詮あることと存じます。

庄松ありのままの記』は、明治、大正、昭和、平成と、何度も再販されました。その中でも、制作の意図を読み取れる文を上に引用してみました。

この書を書かれた理由は?

明治22年版に、「庄松の話を聞書し、難在がり、面白がり、珍がり」という言葉があります。

庄松さんの言動が様々な方に受け入れられていたことがわかるのですが、信仰に生きられた方を紹介する時、「ありがたく、おもしろく、めずらしい」という表現は滅多に使われませんよね。

ありがたく、おもしろく、めずらしい

浄土真宗のみ教えと合致している味わいは「ありがたく
世間体を気にされないストレートな表現は「おもしろく」
日々を普通に過ごしている私たちにとって「めずらしく

そのように感じる方が多かったのでありましょう。

そして、庄松さんの言動を味わううちに、「庄松さんの言動を様々な方に伝えていきたい」という強い想いが生じてきた方が大勢いらっしゃったのでしょう。

『庄松ありのままの記』を求め、様々な土地の方々が集まっておられたそうです。庄松さんの言動を通して伝わる阿弥陀さまの御心の尊さを感じずにはおれません。

明治22年版の最後に、「以て御法義を喜ぶの一助とす」という言葉を残されております。

この言葉から、単に庄松さんを伝えるためではなく、阿弥陀さまのおすくいをともによろこぶために、編集者は『庄松ありのままの記』を編纂されたことが伝わってまいります。

そのような編集者の想いは、大正、昭和の『ありのままの記』にも引き継がれております。

大正12年版では、「この面白き有難き逸話こそ、埋没せんは惜けれとて」と訴えられております。

庄松さんの言動が決して無くならないようにとの想いがあるんですね。

それは、私も同じ気持ちです。

仏教離れが進んでいる現代だからこそ、庄松さんの言動を通して、仏教はいのちを終えていく時だけに必要なみ教えではなく、今をよりよく生きるために必要なことを一人でも多くの方と感じ合えればと思います。

私が出遇えたよろこびを他人と一緒に

浄土真宗というみ教えは、そのような心を与えてくれます。

返しても返しきれない阿弥陀さまの御恩の中で、ともによろこばせていただくことが、「教えを伝える」ことにつながっていきます。

『庄松ありのままの記』は、そのような庄松さんの心を無駄にしないものでありました。

昭和3年版に、「世上求道の方々も此の書が歓喜信楽の助縁とならば庄松同行の本意にかなひ」と示されております。

私たち自身が、阿弥陀さまのお救いをよろこぶ身になることこそ、庄松さんの御意志であります。

『庄松ありのままの記』を通して、庄松さんのよろこびを味わうのではなく、今、私たちに届いている阿弥陀さまの御心を味わいたいものです。

「庄松ありのままの記」の注意書きも大切!

明治22年

されば古語に「岸崩花逆、石堕笋斜」といへるが如く、実にこの書は庄松のありの其ままなれば、或は言の卑劣、或は言の解し難きあるは、乞ふ看者咎るなかれと、一言断り置也。

大正12年

これを看るものは、前編の初めにいへる如く、庄松ありのままなれば、言語の卑劣、亦解し難きことままあれど、それを咎むる事なかれ。

これは僧侶として注意しなければならないでしょう。

無意識に自分の都合のいいように聖教を読んだり、全国に大勢おられる妙好人の言葉は、使いやすい言動を一つ選んで、まるで、その妙好人の本意であるように伝えてしまうことがあるそうです。

『庄松ありのままの記』に掲載されている庄松さんの言動は、よく読み替えられております

万人にわかりやすくするために必要な作業かもしれませんが、それでは庄松さんの心を現代に伝えたことになりません。

また、「言語の卑劣、亦解し難きこと」とあるように、言動一つでは庄松さんの本意は決してわかりません。

言動一つを法話で紹介するのは、「いいとこ取り」というやつです。

そのような危険性を、当時の編集者も感じておられたのかも知れませんね。

庄松さんってどんな性格?

 

明治22年

庄松同行は世に名高く、我讃岐真宗の信者なり。其の人と為り、頑愚無欲にて、娶らず世を見ず。生涯東西に意行して能く人を諭せり。その諭ぶり、質朴、ありのままにして、皆能く自から御法義に適ふて、面白くかつ難在し。

昭和3年

庄松大同行は讃岐国大川郡丹生村字土居に生れて真宗興正派三本松村勝覚寺の門徒でありました。世にも稀なる信者で頑愚無欲にして一生涯独身生活を為し、東西に遊化し能く人々を諭しました。其言ふ處質朴ありのままにして而も御法義に適ひ面白く有難くありました。

庄松さんは、現在の香川県東かがわ市土居という場所に生まれた真宗興正派勝覚寺の門信徒でありました。

庄松さんの性格について、明治22年版に、

頑愚無欲にて、娶らず世を見ず。生涯東西に意行して能く人を諭せり。その諭ぶり、質朴、ありのままにして、皆能く自から御法義に適ふて、面白くかつ難在し」と示されております。

つまり、

欲が無く、妻を娶ることなく、世間体を気にされなかった。生涯を通して、あらゆる地域で人々に仏さまの教えを諭されました。その諭しぶりは、純粋で、飾り気が無かったのですが、すべての言動は自然と浄土真宗の御法義に合致していたものでした。その言動は面白くもあり、有難くもありました。

ただ純粋に、「阿弥陀さまと私の関係」を大切にした庄松さんの性格があらわれていますね。

当時の方々にとって、庄松さんはどのようなイメージだったの?

 

明治22年

爰に松前人徳太郎といふ同行の、はるばる庄松を慕ひ来て、庄松は既に没し、大に残念がり。

大正12年

我讃岐の大同行庄松と云ふを知らぬものなし。先に松前の徳太郎と云へる同行、庄松を慕ひ来れど、没後にして残念のあまり、友同行より話を聞き、面白し有難しとて、華岡大仙師に筆を乞ひ『庄松ありのままの記』と云ふを著せり。

昭和3年

聖者の再来で有らふかと伝ふる此の同行の諷刺的の教語は一一肺腑をつくの感があります。学者や智者はさてをき、愚癡蒙昧の私共は此の平易の諭しによりて法徳を味ふことが出来るかと思はれます。

私が聞くところでは、庄松さんについては、「変わり者」「自由奔放」というイメージが強いようです。

しかし、上の「庄松さんってどんな性格?」のところでも、今回の引用でも、それを連想させる言葉は出てきておりません。

むしろ、誰もが驚くほど、阿弥陀さまを大切に、阿弥陀さまに抱かれているよろこびのままに生涯を送られた方でありました。

その庄松さんの言動は、庄松さんの「諭し」と受け取られております。

もしも単なる「変わり者」ならば、このように受け取られることはないでしょう。

また、庄松さんが亡くなった時、浄土真宗のみ教えを学ぶ大勢の方が残念がりました。ここで「悲しむ」というのではなく、「残念」という言葉を使われているところは注目すべきであります。

私たちは情を持って生活しますから、愛する人を亡くした時、「悲しむ」という感情に心を揺るがされます。それでは、「悲しみ」の後に何が残るのでしょうか。

もしも、「死んだらおしまい」という人生観ならば「悲しみ」の感情だけに終わってしまうような気がします。

浄土真宗は、「死んだらおしまい」という人生観ではありません。

阿弥陀さまのはたらきによって浄土に生まれさせていただき、さとりをひらき、この世界で自在に人々を導く仏としてのいのちをいただきます。

往って終わりではなく、還らせていただくところまで、阿弥陀さまのおはたらきであります。

どのようなすがたで還ってくるのかは分かりません。でも、亡き方がご縁となって浄土真宗に出遇わせていただいている方が多いのではないでしょうか。

庄松さんが亡くなった時、直接話を聞けないという残念な気持ちを抱える方が多かったですが、いのちを終えても、私が阿弥陀さまのことを考え、お念仏を称えるご縁となってはたらき続けている。

その一つが、『庄松ありのままの記』だと私は思っております。

昭和3年版に、

聖者の再来で有らふかと伝ふる此の同行の諷刺的の教語は一一肺腑をつくの感があります。学者や智者はさてをき、愚癡蒙昧の私共は此の平易の諭しによりて法徳を味ふことが出来るかと思はれます」と示されております。

誰もが阿弥陀さまの御心を身近に感じれるような、庄松さんの諭しを、亡き後も私に届いている『庄松ありのままの記』を通してともに味わえればと思います。