五重義相 〜私の歩むただ信心のお救い。そして、信心の生活の尊さを知らされました。〜

「安心論題」

浄土真宗のお坊さんが、
とても大切にしている勉強です。

「勉強」っていうと、
なんか嫌なイメージが先走りますね。笑

しかし、
浄土真宗の勉強は、
「そのまま救う」という、
阿弥陀さまのお心を味わうご縁であります。

決して、
試験勉強のように、
つらいものではありません。

親鸞聖人があきらかにされた、
浄土真宗のみ教えを味わうことにより、
私自身、仏縁に遇わせていただこうと思っているところであります。

南無阿弥陀仏

五重義相の根拠となる蓮如上人のお言葉と、存覚上人のお言葉は、文章の一番下に記載してあります。 1

「五重義相」ってどういう意味??

「五重義相」という言葉の意味

「義相」は「意義と相状」という意味でありますので、「五重が示す意味と内容」といった意味であります。

「五重」とは、正しい信心獲得の始終のすがたを五つに開いてお示しくださったものであります。

五つの意味を一つひとつみていきましょう。

「五重」(宿善・善知識・光明・信心・名号)


 「宿善」

 信心を獲得するまでの過去世の善き因縁のことであります

『教行証文類』
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。


「善知識」

阿弥陀さまのお誓いへの出遇いへと導いてくださった方のことであります 

『仏説観無量寿経』
かくのごときの愚人、命終らんとする時に臨みて、善知識の、種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。


「光明」

 阿弥陀さまの量り知れない光のことであり、阿弥陀さまの智慧そのものです

『唯信鈔文意』
しかれば、阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。


「信心」

阿弥陀さまより賜る信心のことであります

『正像末和讃』
不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり 信心の正因うることは かたきがなかになほかたし


「名号」

ここでは、信心を賜った後の称名念仏のことであります

『尊号真像銘文』
「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。

「五重」の「重」とは、前を承けて後が成立する構造

上に挙げた五重の「」というのは、単に五つならべたというものではありません。

前のものが後をおこし、後のものが前に重なってゆくという構造を示されております。

つまり、「宿善」によってこの世で「善知識」にであわせていただきます。

そして、「光明」のおはたらきによって「信心」を賜ります。

信心」を賜ったならば、「名号」が称名念仏となって出てきます。

このように、「五重」とは、正しい信心獲得の始終のすがたを五つに開いてお示しくださったものであると考えられます。

「五重」の中心は、もちろん「信心」です

浄土真宗では、阿弥陀さまより賜る「信心ひとつ」で救いが決定します。

ですので、「五重」の中でも信心ひとつで救われるはずであります。

しかし、蓮如上人は次のように示されております。

この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。

五重の義が成就しないと救われない」というお示しですので、信心ひとつではなく、「宿善・善知識・光明・信心・名号」のすべてが条件になっているように見受けられます。

これはどのように理解したらいいのでしょうか。

実は、「五重」とは「信心」が中心となる構造なのであります。

ここで、「信心」を中心に「五重」を味わってみましょう

「五重」は「信心」におさまります

信心を賜るために「私のはからい」という条件は必要ありませんが、信心を賜った後である「名号」以外を条件として考察してみます。

  • 遠い過去世からの因縁(宿善)がありました。
  • 導いてくださる方(善知識)がおられました。
  • 阿弥陀さまのお育て(光明)によります。
  • 念仏の生活(名号)を送ります。

このように、五重のすべては信心におさまってしまうのであります。

だったら信心だけを示せばよかったはずでありますが、なぜ蓮如上人はわざわざ「五重」をお示しになられたのでしょうか?

その理由を、蓮如上人はお手紙の中で示されております。

誤った見解を正すために「五重の義」を示す必要がありました

蓮如上人は「五重」を示された理由として、二つの誤った見解を挙げておられます。

一つは「十劫安心」、もう一つは「善知識帰命」と言われております。

その二つの見解はどのような内容なのかみていきましょう。

「十劫安心」は浄土真宗の信心と無関係である誤った見解です

まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。
さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。

「十劫安心」とは、「十劫という、はるか過去に、阿弥陀さまによって私たちがお浄土に生まれさせていただくことが決定されましたので、それを忘れないのが信心ですよ」ということをただ信じるという「頭で理解することを救いの条件」にしてしまう誤った見解であります。

これでは、ただの私の心を条件にしているのであって、浄土真宗の信心ではありません。

「五重」の構造もすべて必要なくなってしまいますので、明らかに誤った見解であります。

「善知識帰命」は誤った見解です。「帰命無量寿如来」です!

またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。
そもそも、善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。

「善知識帰命」とは、「たとえ阿弥陀さまにお任せするといっても、善知識がいなければ意味のないことですよ。善知識だけを頼りにしてください」ということをただ信じるという「阿弥陀さまよりも善知識を重要視」してしまう誤った見解であります。

浄土真宗の信心は、阿弥陀さまのお救いに疑いのない信心ひとつであります。

善知識に対して疑いのないことは信心とは言えませんし、救いの主である阿弥陀さまよりも善知識を重要視するのは、明らかに誤った見解でありましょう。

「五重」の構造に「善知識」がありますが、これは信心が成立するための条件でありますので、明らかに誤った見解であります。

「五重」を知らせていただいたからこそ、信心を賜った生活を味わう気持ちが湧いてきます

「五重」を知らせていただき、今、私が阿弥陀さまのお救いに出遇わせていただいていることは、「とても尊いことなんだ!」と思い知らされます。

今、当たり前のように阿弥陀さまのお救いを聞かせていただいておりますが、

過去世からのご縁に遇わせていただいたんだと知らされます。宿善

確かに、私を導いてくださる方がおられたと知らされます。善知識

すべては阿弥陀さまのお育ての中であったと知らされます。光明

そして、お念仏をよろこぶ生活を賜りました。名号

えいかい
信心を賜った尊い人生を当たり前のように歩ませていただいている「今」。
とっても尊い「今」なんですね!

存覚上人『浄土見聞鈔』
もしききえてよろこぶこころあらばこれ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。


蓮如上人『御文章』
それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。これおほきにあさましき次第なり。
そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。
さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。
またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。
そもそも、善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。
これによりて五重の義をたてたり。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

Notes:

  1. 存覚上人『浄土見聞鈔』
    もしききえてよろこぶこころあらばこれ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。

    蓮如上人『御文章』
    それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。これおほきにあさましき次第なり。
    そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。
    さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。
    またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。
    そもそも、善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。
    これによりて五重の義をたてたり。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
    されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

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