「恩徳讃」を詠まれた親鸞聖人。かなしみの私が法を支えに力強く歩む人生を「恩徳讃」に知らされます

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

この「恩徳讃」からは、阿弥陀さまのお救いに出遇うことのできた親鸞聖人の力強さが伝わってきます。

身を粉にしても、骨を砕いても」決して返しきることのできないご恩に「報ずべし、謝すべし」という、浄土真宗のみ教えを聞かせていただく私たちの生き様を示しておられるように、僕は感じるところであります。

そして、この「恩徳讃」は親鸞聖人が私たちに向かって上から目線で言われたものでは決してありません。

親鸞聖人ご自身へのお言葉であります。

それを受け取る私たちは、他人事ではなく、私ごととして聞かせていただくべきであります。

それでは、なぜこの「恩徳讃」を親鸞聖人は詠まれたのでしょうか。

「兄弟子の聖覚さま」や「七高僧の善導大師」のお言葉を引用されたのはあきらかでありますが、そのような学問的視点ではなく、親鸞聖人の御心を窺えたらと思っております。

息子の善鸞さまの義絶

親鸞聖人が「恩徳讃」を詠まれたのは85歳の頃だと考えられております。

親鸞聖人の時代での85歳といえば、おそらく現代では驚かれるような長寿であったと予測されます。

そのような年齢になって「身を粉にしても報ずべし」「ほねをくだきても謝すべし」と詠まれたことに、「ただ阿弥陀さまのお救いを仰がせていただくばかりであります」という気迫を僕は感じます。

「恩徳讃」を詠まれる1年前に、おそらく親鸞聖人の生涯において最も悲しかった出来事がありました。

それは、息子の善鸞さまを義絶しなければならなかったという事態であります。

親鸞聖人が離れた関東では、正しいお念仏のみ教えが惑わされておりました。

そのことに危機感を覚えた親鸞聖人は、息子の善鸞さまを関東に送ったのですが、それが余計に大きな混乱を招いてしまう。

「最も信頼していた息子がどうして??」

そのようなことを思われたのかもしれません。

善鸞さまを義絶された後、想像できないほどの悲しみが伝わってくる親鸞聖人のお手紙が残されております。

第十八の本願をば、しぼめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせたりときこゆること、まことに謗法のとが、また五逆の罪を好みて、人を損じまどはさるること、かなしきことなり。
ことに破僧の罪と申す罪は、五逆のその一つなり。親鸞にそらごとを申しつけたるは、父を殺すなり。五逆のその一つなり。このことどもつたへきくこと、あさましさ申すかぎりなければ、いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもひきりたり。三宝・神明に申しきりをはりぬ。かなしきことなり。

『親鸞聖人御消息』

「かなしきことなり」

親鸞聖人自体、ご自身のことをあまり語らなかった方でありました。

しかし、今回のお手紙では2度も「かなしきことなり」と、感情をそのまま発露されております。

「阿弥陀さまのお誓いを否定したかなしさ」

「親鸞聖人自身を裏切ったかなしさ」

そんなかなしさが伝わってきます。

そして何より、善鸞さまを信頼していたからこそ出てきた表現でしょう。

しかし、親鸞聖人という方は、善鸞さまを責めることよりも、義絶したご自身のすがたを嘆かれました。

「小慈小悲もなき身にて」

小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき

この和歌も『正像末和讃』の一首でありますので、「恩徳讃」と同じく85歳頃で、善鸞さま義絶の翌年であると考えられております。

「小慈小悲」というのは、私たちの心で起こす「小慈悲」のことであります。

自分の都合によって重さが変わりますし、いつまでも続くものではない「」です。

えいかい
「小慈小悲」が人間の慈悲なのに、なんで親鸞聖人は「小慈小悲すらない」って言われているんだろう・・・

僕はずっとそう思ってました。

子一人を守ることができないばかりか縁を切らなければならないという、「親子の愛」すらないご自身のすがただったと嘆かれたのかも知れません。

僕は、この親鸞聖人のお言葉こそ、相手を責めるのではなく、自分の痛ましさを知らされる阿弥陀さまのお救いに出遇った方のすがたであると受け取っております。

それと同時に、「そのような私を決して放っておかない阿弥陀さまがいたんだ!」というお心が、「恩徳讃」の世界ではないでしょうか。

「恩徳讃」はかなしみの私が法に出遇えたよろこび

親鸞聖人が善鸞さまを義絶しなければならなかったように、何が起こっても不思議ではない世界を生きております。

私たちの日常でも、自分の欲望のために他者と裏切り合うことは日常茶飯事でしょう。

親鸞聖人は「小慈小悲もなき身にて」と仰せになりましたが、この言葉は親鸞聖人のことではなくて、無意識に自己中心に他者を傷つけて、裏切る人生を送る私のことであります。

そんなかなしみの私が、今、当たり前のように南無阿弥陀仏が出る人生を賜っております。

どれだけ返そうとしても、たとえ命をかけても返しきれない阿弥陀さまへのご恩の中で、法を中心とした前を向いて歩いていく力強さを教えてくれる。

それが「恩徳讃」の人生であると味わうところであります。

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