本来ならば、行方も知らずに終えていかなければならないいのちでありました。

浄土真宗とは、
『仏説無量寿経』という経典のみ教えです。

そこには、
阿弥陀さまのお救いが説かれております。

そして、
阿弥陀さまが放っておけなかった私のすがたが説かれております。

その内容は、
2500年前に説かれたと思えないほど、
今を生きる私たちが共感できる内容ばかりでありました。

これによつて身を終へ、命を夭ぼす。あへて善をなし道を行じて徳に進まず。寿終り、身死してまさに独り遠く去るべし。趣向するところあれども、善悪の道よく知るものなし。

そういう苦悩のために命を縮めて死んでしまうことさえあります。善い行いをせず、修行して功徳を得ようともしないで寿命が尽きて死んだなら、ただひとり遠く去っていかなくてはなりません。行いに応じていく先は決っているのですが、その善悪因果の道理をよく知るものはひとりもいないのであります。

本来ならば、決していいところに生まれられない私たちではないでしょうか?

私自身、オギャアと生まれて今に至るまで、人様に迷惑をかけるだけの人生であります。

それにも関わらず、決して悪びれもせず、無意識に自分の正当性ばかりを主張しております。

目の前で他の方が困っていても関係ありません。

いつも自分中心に、「私は」「私が」という生き方をしております。

毎日毎日、地獄に向かっているのが私の本当のすがたなんだと知らされます。

 

みなさまはどうでしょうか?

今までの人生を振り返ってみてください。

「人を助けたことと困らせたこと、どちらが多いですか?」

「今までの人生で、嘘をついたことはありますか?」

「今までの人生で、人を憎しんだことはありますか?」

「今までの人生で、人のものを欲しいと思ったことはありますか?」

毎日のように報道される悲しい事件や裁判は、このような人の心が元になっていることが多いように感じます。

誰もが地獄に向かっているのであり、誰一人として救われていく方はいないのでしょうか?

「救われ難い私」を放っておかない阿弥陀さま

『歎異抄』という書物に、親鸞聖人の次のような言葉が残されております。

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふ

どのような修行をしていても、煩悩から離れることはできません。

そのような私の生まれる場所は地獄以外にはありません。

しかし、そのような私を見捨てないという、阿弥陀さまのお誓いがありました。

ここで親鸞聖人は、

阿弥陀さまのお誓いが真実であるならばお釈迦さまの説教は嘘ではないでしょう。お釈迦さまのお説教が真実ならば、お釈迦さまの真意を明らかにされた善導大師の言葉は嘘ではなく、もちろん法然聖人の言葉は嘘ではありません。そして、法然聖人の言葉が真実ならば、私、親鸞の考えは意味のないものではないのではないでしょうか?

このように、「候ふ」と「ないでしょうか」という言葉を残されました。

救う立場ではなく救われる立場として、他の方々とともに阿弥陀さまのお救いをよろこばれた親鸞聖人のすがたがあらわれております。

何の修行も満足にできず、「本来ならば地獄行き」である私でありますが、そのような私を放っておかない阿弥陀さまがおられます。

決していいところに生まれることができないかなしみと、そんな私が救われるよろこびは同時に湧き上がってくるものであります。

地獄に向かっている私を支えてくださっておられる阿弥陀さまのお救いを知らされる生涯を、ともに送らせていただきましょう。

 

みなさまの優しいシェアをありがとうございますm(__)m