「大舎城の悲劇」には、「今を生きる私のすくい」が説かれておりました。

『仏説観無量寿経』に説かれている、
「大舎城の悲劇」という王宮での惨劇。

それは、単なる物語ではありません。

苦悩を抱える私のすがたが説かれております。

 

「大舎城の悲劇」の「文章」「書き下し文」は下のリンクをご覧ください。

「大舎城の悲劇」は単なる物語ではありません。今を生きる私の救われるすがたが描かれておりました

登場人物の気持ちを大切に味わってみましょう

「大舎城の悲劇」とは、今を生きる私たちの生活と決して別物ではありません。

誰もが、同じような苦悩を抱え、同じような欲望を抱きながら生活しております。

ここでは、「大舎城の悲劇」でも中心的な人物となる「阿闍世」韋提希」の気持ちに焦点を当てて、苦悩の世界を生きるすがたを改めて見つめ直してみましょう。

阿闍世(アジャセ)

「大舎城の悲劇」において、阿闍世は両親を殺そうとした悪人のように描かれております。

しかし、阿闍世の気持ちに焦点を当ててみますと、現代を生きる私たちのすがたと合致するものがあるように思えてなりません。

阿闍世はお釈迦さまの従兄弟である提婆達多にそそのかされて、王であり父親でもある頻婆娑羅王を牢屋に閉じ込めました。

今回は王という権力を得るための行動ですが、このようなことは、人間社会のどこでも存在しております。

「自分の地位確立のために、邪魔になる他者を外に追いやろうとする」

たったそれだけのことなんです。

そんなこと、珍しいことではありません。

「自分を認めていただくために、自分の価値を語っていくこと」も、どこでも当たり前のように起こっていることであります。

すべて自分の地位や名誉のための行動であります。

「自分の思い通りにしたい!」

それが人間が持ち前の気持ちであり、苦の根本となる要因であります。

しかし、阿闍世の行動は、世間的に見ればやり過ぎていました。

「思い通りにならないこともあるよなぁ」

そうやって耐えなければならない現実を歩むのが人生です。

しかし阿闍世の場合、耐えるのではなく、自分の思い通りにするために身内であろうと殺害しようとしました。

現代では、「自分勝手」と言います。

私自身をはじめとして、誰もが自分勝手になってしまうのがこの世界の現実であることを知らされます。

韋提希が頻婆娑羅王を助けようと、毎日、食事をさせていたことを、阿闍世はどう思ったのでしょうか?

「母である韋提希に裏切られた!!」

そう思ったでしょう。

それは、その後の韋提希への憎しんだ様子からも伝わってきます。

阿闍世の両親に裏切られた悲しみという気持ちも大切にしなければなりません。

現代、世間を騒がしている親子間の事件やニュースは、お互いが裏切っているという現実を知らされます。

そして、「思い通りにしたい」という私にも生じる気持ちが、恐ろしい行動を生む可能性があることを阿闍世のすがたより知らされるところであります。

韋提希(イダイケ)

「大舎城の悲劇」の中でも、韋提希さまはお釈迦さまが法を説く機縁になるという、最も重要な役割を担っておりました。

韋提希さまがお釈迦さまに法を説くことを求めたのは、「法を聞いてみたい」という簡単な気持ちではありませんでした。

生きていたら必ず沈んでしまうことがあるこの世界の苦悩の現実を知らされた時、お釈迦さまに向かって次のように思いのままを吐き出されました。

わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし

「私のために憂いも悩みもない世界をお教えください!この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません!」

そのような韋提希さまの痛烈な叫び声が、時代を超えて届いてきているようであります。

ここで、お浄土を「憂悩なき処」と表現されております。

韋提希さまが知らされたこの世界の現実は、「憂悩なき処」の反対の意味でありますから、憂いと悩みばかりの世界であったのでしょう。

韋提希さまの気持ちを中心に「大舎城の悲劇」をよくよく味わってみますと、お釈迦さまに出遇うまで「憂いと悩み」(心配事や心の悩み)が途切れることはありませんでした。

  • 息子によって夫が捕らえられてしまうという、家庭がバラバラになってしまう悲しみ。
  • 夫を救うために、ご自身の息子にバレないようにしなければならないという悩み。
  • 息子によって、自分自身が捕らえられるという苦しみ。

不条理なことばかりが起こり続けました。

世間では、「不幸」と表現されるのかも知れませんが、これがこの世界の現実であります。

韋提希さまは、そんな人生の現実と向き合い、「愁憂憔悴す」と表現されておりますように、苦悩の中にやつれ果ててしまいました。

私たちの人生もそうですよね。

「思い通りにならない」のが人生であります。

歯を食いしばって、耐えて生きなければならないのが人生であります。

しかし、韋提希さまはそのような人生の真っ只中を生きなければならない私の救われてゆく唯一つの道を、お釈迦さまのお説教により聞かせていただいたのです。

『仏説観無量寿経』の最後の方に次のように説かれております。

仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得たり。

韋提希さまは、阿弥陀さま、観世音菩薩、大勢至菩薩を観ずることができ、よろこびに満ち溢れ、尊いことであると讃えられ、この上ないさとりを得ることができたのです。

つまり、「不幸」でしかない人生だったのが、お釈迦さまのお説教により、さとりを得るという「幸せ」の人生に転換されたのでした。

それほどの仏法を、今、当たり前のように聞かせていただける現実を恵まれているのが私たちなんです。

「大舎城の悲劇」とは、苦悩を抱える私たちが救われてゆくことを説かれていることがよくわかりますね。

「大舎城の悲劇」の登場人物は、私がお浄土を願うためにお現れになられた菩薩さまでありました

親鸞聖人は、次のように詠まれております。

弥陀・釈迦方便して
 阿難・目連・富楼那・韋提
 達多・闍王・頻婆娑羅
 耆婆・月光・行雨等


大聖おのおのもろともに
 凡愚底下のつみびとを
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

「大舎城の悲劇」に登場するすべての方が、何をしでかすかわからない私を救うためにあらわれた方々でありました。

「どのような方であっても放っておかない」という阿弥陀さまのお誓いを信じる身とするためにあらわれた方々でありました。

「大舎城の悲劇」は、「今を生きる私のすくい」が説かれたお話でありました。

 

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