孤独と知らされて実感する「人の優しさ」。そして「阿弥陀さまが一緒に歩んでくださる尊さ」

浄土真宗とは、
『仏説無量寿経』という経典のみ教えです。

そこには、
阿弥陀さまのお救いが説かれております。

そして、
阿弥陀さまが放っておけなかった私のすがたが説かれております。

その内容は、
2500年前に説かれたと思えないほど、
今を生きる私たちが共感できる内容ばかりでありました。

人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当りて苦楽の地に至り趣く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし。

人は世間の情にとらわれて生活しているのですが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのであります。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていくのであります。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代ってくれるものはいません。

人間関係によって育まれる私たちもみんな独りです

私たちは、毎日、様々な方と会話をしながら、様々な方の気持ちを聞かせていただきながら生活しております。

生活を送る中で、人を好きになったり、人の優しさに感動を覚えたりして生きております。

「一心同体」という言葉がありますように、

「この人にはなんでも話せる!」
「この人は何でもわかってくれる!」

そのような気持ちと信頼感が湧いてくることもあります。

しかし、結局は誰もが独りです。

相手の気持ちを完全に分かることはできません。

人間には必ず「我」があります。

相手の気持ちそのままをわかっているつもりでも、「自分の考え、自分の気持ち」といったフィルターを通してしまいます。

相手の気持ちそのままを受け取ることはできません。

どれほどの人間関係を築いても、たとえ人に話してラクになれたとしても、悩み苦しみを一人で抱えて生きなくてはなりません。

決して、誰とも代わってあげることはできません。

独生独死独去独来(独り生れ独り死し、独り去り独り来る)

誰とも代わることはできず、誰もが独りで生きていかなくてはならない人生であります。

ですので、死んでいく時も独りです。

多くの方に見送られながらいのちを終えていく時も、本人は独りです。

最後の最後、目を閉じてしまうその時、独りでいのちを終えていくことを実感するのかも知れません。

その時に、耐えられない寂しさを感じるのかも知れません。

でも、「独り」というのは、決して寂しさだけではありません。

独りだと知らされることで生まれる感謝の気持ちがあります

本来なら「独り」であった私が、多くの方に支えられ生きていることに感謝できます。

「独り」と知らされたからこそ、人の優しさを当たり前と思わずに、有難いことだと受け取れるようになります。

そして何より、独りで死んでいかなくてはならない私とご一緒に歩んでくださる阿弥陀さまの尊さを知らされてゆきます。

誰もが独りで、決して代わってあげることはできない。

そんな私だとご存知の上で、常に私を照らし続けるひかりとなってはたらき通しの阿弥陀さまであります。

私を支えてくださる多くの方々、そして阿弥陀さまのお心に感謝しつつ毎日の生活を前向きに歩ませていただきましょう。

みなさまの優しいシェアをありがとうございますm(__)m