一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、 仏、広大勝解のひととのたまへり。この人を分陀利華と名づく。


一切善悪の凡夫人、

如来の弘誓願を聞信すれば、

仏、広大勝解のひととのたまへり。

この人を分陀利華と名づく。

 

えいかい

分陀利華?

フンダリケ?

どういう意味?

阿弥陀さまのお救いを信じる身

「聞信」とは、一般的には「聞き信じる」と読むことができるので「聞いて信じる」ということになりますよね。

しかし、それでは「聞くこと」と「信じること」が救いの条件になってしまいます。

阿弥陀さまのお救いは無条件です。

「信じなきゃ救わないぞ!」

そういう阿弥陀さまなら、僕は救われていませんでした。

実は、浄土真宗の「信心」を「私が信じること」と捉えると、必ず間違いが起こります。

浄土真宗では「聞」と「信」の関係を「聞即信」と表現されます。

「聞いていることはすなわち信心」ということです。

つまり、聞いて信心が生じるのではなく、聞いているままが信心です。

それでは、何を聞いているままが信心なのでしょうか。

阿弥陀さまが私を救うということです。

その証拠が、私を救うお誓いのままに、今、私に南無阿弥陀仏が届いていることです。

私を救うというお誓いを完成され、南無阿弥陀仏となって阿弥陀さまは現に私たちにはたらき続けておられることを、そのまま疑いなく聞いていることが信心であります。

ですから、信心は決して私が作り上げるものではありません。

疑いのない阿弥陀さまのお救いを、そのまま聞いていることでありますので、作り上げるものではなく、阿弥陀さまに賜っているものであります。

そうして、阿弥陀さまより信心を賜った方のことを「広大勝解の人」であり「分陀利華」と親鸞聖人はお讃えになりました。

分陀利華(フンダリケ)?

もともと、「分陀利華」という言葉によって念仏者を讃えられたのはお釈迦さまでした。

『仏説観無量寿経』という経典の中で、

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。

と示されております。

親鸞聖人は、「これは如来のみことに、分陀利華を念仏のひとにたとへたまへるなり」と示されているのですが、「分陀利華」とは、白い蓮華の華のことです。

白い蓮華のお花は、真っ黒な泥の中で、泥さえ美しく見せるように、白く美しく咲きます。

気付いたら自己中心に物事を判断して、自分にとって都合の悪い存在は排除しようとしてしまう。

怒り、腹立ち、妬み、嫉みという感情がなくなることのないのが、私の本当のすがたであります。

そんな真っ黒な泥のような私の心に、決して泥に染まることも無くなることもない「南無阿弥陀仏」の功徳が私に満ちてくださいます。

分陀利華と讃えられるほど尊い南無阿弥陀仏を賜った人生を堂々と歩みたいものです。

妙好人

中国の善導大師という方は、お釈迦さまの「分陀利華」という言葉を釈され、

もし念仏のひとはすなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。

と示されました。

好人
妙好人
上上人
希有人
最勝人

好ましく、とっても好ましく、この上なく、稀であり、最もすぐれている」という5つの嘉誉によって褒められております。

ここで、「人」として褒められていることには注目すべきだと思います。

南無阿弥陀仏を褒めるのではなく、南無阿弥陀仏を賜った念仏者として褒められております。

「仏法が尊いのであって、私はそれをただ聞かせていただくだけ」

私自身、法話をお聴聞させていただく時、そのように受け取ってしまうことがあります。

しかし、南無阿弥陀仏を賜ったからには、俗世で生きながらも価値観は変革されていきます。

恥ずかしい私の姿を知らされつつ、私を放っておかない阿弥陀さまのお救いの尊さを知らされていきます。

ただ自由気ままに人生を歩むのではなく、念仏者としての自覚を持って、恥ずかしくのない生き方を今後もしていかなくてはと思うところであります。

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