本願名号正定業 至心信楽願為因 〜南無阿弥陀仏ひとつのお救い。私の信心は阿弥陀さまからの賜りもの〜

本願名号正定業
至心信楽願為因

本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願(第十八願)を因とす。

阿弥陀さまの本願(御本意の願)が成就され、完成された名号南無阿弥陀仏こそが、お浄土に往生するための行であります。そして、至心信楽の顔(第十八願)に誓われている信心が往生の正因であります。

浄土真宗というみ教えでは阿弥陀さまのお救いを聞かせていただきます。

その阿弥陀さまとは、「あらゆるいのちを救いとりたい」という願いのままに、南無阿弥陀仏という聞こえる仏さまとなって私たちにはたらき続けておられる救いのはたらきそのものであります。

そのことを讃えられている今回の2句が「正信念仏偈」の中心と考えることができるのではないでしょうか?

阿弥陀さまの「ご本意の願い」を「本願」といいます

本願には「因本の願」と「根本の願」という二つの意味があります。

因本の願」とは、仏さまが因位の菩薩であるときに起こされた願いのことであります。

この願いには、それが完成しなければ仏にはならないという誓いを伴っておりますので、誓願ともいわれます。

また、この「因本の願」には、「総願」と「別願」とがあります。

「総願」とは、すべての菩薩が共通して起こす願であり、これを「四弘誓願」といいます。

「四弘誓願」

衆生無辺誓願度
一切の衆生をさとりの岸にわたそうという誓願

煩悩無数誓願断
一切の煩悩を断とうという誓願

法門無尽誓願学
一切の教えを学びとろうという誓願

仏道無上誓願成
この上ないさとりを成就しようという誓願

別願」とは、それぞれの菩薩に特有な願いであります。

ゆえに、浄土真宗の信仰対象であります阿弥陀さまが法蔵菩薩であった時に起こされた「四十八願」はそれにあたります。

根本の願」とは、阿弥陀さまの四十八願の中、第十八願を根本の願とし、他の四十七願を枝葉の願と見ることをいいます。

その第十八願とは、次のような願いであります。

設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

ここでは、「あらゆるいのちが、救いに疑いのない信心と、南無阿弥陀仏を称える念仏によってお浄土に生まれることができなかったならば、私は阿弥陀と名乗らない」と、あらゆるいのちがお浄土へ往生することと、法蔵菩薩自身がさとりを開くことを一体に誓われております。

この誓願こそ、あらゆるいのちを救わずにはおれないという阿弥陀さまの根本の願いでありますので、特に「本願」と呼ばれております。

親鸞聖人は、第十八願に誓われている「行」、「信」、「証」、「真仏土」を、それぞれ第十七願、第十八願、第十一願、第十二・十三願に配当し、『教行証文類』の各巻の冒頭に掲げられております。それを真実五願と言います。

真実五顔

第十七願
名号南無阿弥陀仏を誓われた願第十八願
他力の信心を誓われた願

第十一願
正定聚と滅度の利益をを誓われた願第十二願
限りないひかりの仏になることを誓われた願

第十三願
限りないいのちの仏になることを誓われた願

親鸞聖人はこの真実五願を『教行証文類』各巻の冒頭に掲げることにより、浄土真宗のみ教えとは第十八願であり、開いて言えば真実五願によって成就され、阿弥陀さまの本願のはたらきによって衆生に回向されたものであることを示されているのでしょう。

回向とは、「回し向ける」と書かれております。阿弥陀さまから私に与えられたことを示されております。

本願名号正定業」とは、名号南無阿弥陀仏のはたらきこそが私を往生させる因であることを讃えられたものでありますが、それは、名号南無阿弥陀仏を誓われた第十七願の誓いそのものを讃え示されたものであります。

また、その名号のはたらきを受け取るのが他力の信心であり、その信心こそがお浄土に往生させていただく正しき因であります。そのことを至心信楽願為因という言葉で表現されております。

信心とは、私に生じる心でありますので、「至心信楽のを因とす」と読まれるはずが、宗祖は「至心信楽のを因とす」と表現されております。

信心は「心」ではなく「願」より生ずる

信心とは、私から起こしたものではありません。阿弥陀さまのおはたらきによって恵まれるものであります。

「至心信楽の心」を起こそうと努力することは自力のはからいであり、浄土真宗の信心ではありません。阿弥陀さまとは、私たちの自力は何の役にも立たないと見抜かれた上で、「至心信楽の願」を誓われた仏さまです。

そして、そのお誓いが成し遂げられたままに、名号南無阿弥陀仏となって「必ず助ける」とはたらき続けておられます。

その阿弥陀さまのお心を素直に聞かせていただくままを信心と言います。決して、信心は私が起こしたものではなく、阿弥陀さまのおはたらきによって恵まれたものであります。

つまり、仏さまを心の拠り所として生きる人生は、私の心が尊いのではなく、阿弥陀さまの願いが尊いんですね。

だからこそ、宗祖は「至心信楽の心を因とす」ではなく、「至心信楽の願を因とす」と讃えられておられます。

仏さまのお心を聞こうともしない。よろこぼうともしない。そのような私が、気付いたらお仏壇の前で合掌し、阿弥陀さまのお話を聞こうと求めている。その姿そのものが、阿弥陀さまより恵まれた姿そのものであります。

他人と信心を比べて傷つけ合ったり、どちらが素晴らしいかを競い合ったりすることは、自分の欲望のために仏法を利用しているだけであります。

浄土真宗のみ教えを聞かせていただくならば、「自分の手柄」を考える必要は全くありません。

それよりも、「あなたも、私も、阿弥陀さまの願いの中でよかったね」と、ともによろこばせていただくことを大切にしたいものであります。

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