真宗教証興片州 選択本願弘悪世 〜法然聖人がいたから、南無阿弥陀仏ひとつで救われる真実のみ教えは広まりました〜

真宗教証興片州
選択本願弘悪世

真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。

法然聖人は、阿弥陀さまのおはたらきによってお浄土に生まれさせていただき仏のさとりを得るという真実のみ教えを日本にお伝えくださりました。
そして、「あらゆるいのちを救う」という阿弥陀さまのお誓いは、この世界に弘まったのであります。

自力の修行によってさとりを得るのが当然であった時代に、ただお任せするばかりであるという阿弥陀さまのお救いを伝えることは至難でありました。

法然聖人だからこそ成し遂げられたことでありましょう。

そして、法然聖人がいなければみ教えに出遇うことはなかったという、親鸞聖人のよろこびが今回の句より伝わってきます。

法然聖人によって弘まった真実のみ教え

真宗」とは、「真実の教え」という意味であり、宗派の名前ではありません。しかし、浄土門の中での真実の教えですので、直接的には浄土真宗のことであります。「教証」とは、「教・行・証」の略なので、浄土真宗の教義全体のことであります。「片州」とは、日本のことであります。

ゆえに「真宗教証興片州」とは、法然聖人が、浄土真宗のみ教えを日本におこされたという意味になります。

その内容を具体的にされたのが「選択本願弘悪世」という句であると言えるでしょう。

選択本願」とは、あらゆるいのちを救うという阿弥陀さまのお誓いであり、「悪世」とは、先に出てまいりました五濁悪世のことで、私たちが生きているこの世界のことであります。

選択本願念仏集』には、「三選の文」と呼ばれる文があります。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

そもそも速やかに生死の境界を離れようと思うならば、二種のすぐれた法の中で、まず聖道門をさしおいて浄土門に入るべきであります。
浄土門に入ろうと思うならば、正雑二行の中で、まず雑行を捨てて選んで正行に帰すべきであります。
正行を修めようと思うならば、正助二業の中で、なお助業をかたわらにして、選んで正定の業をもっぱらに修めるべきであります。正定の業とは、すなわち仏のみ名を称えることであります。
称名する者はかならず往生を得ます。それは阿弥陀さまのご本願にもとづくからであります。

三選の文

1、聖道門ではなく浄土門を選び、
2、雑行ではなく正行を選び、
3、助業ではなく正定業(称名)を選び、

という三種類の選びがありますので、「三選の文」と呼ばれております。

『選択集』では、ただ称名念仏一つで救われてゆくことを示されております

三選の文からもあきらかなように、お浄土に生まれさせていただくためには阿弥陀さまより賜った名号南無阿弥陀仏を専ら称えることであるといわれるのが法然聖人の『選択集』であります。

ゆえに標宗の文には、「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為先」と、『選択集』全体の帰結するところを示されでおります。

『選択集』は、

第三章〜第六章は『大経』、第七章〜第十二章は『観経』、第十三章〜第十六章は『小経』の内容に依っております。

その第十六章の終わりは、次のように結ばれております。

しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。余行はしからず。ゆゑに知りぬ、三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。

こういう訳でありますから、釈迦・弥陀および十方恒沙の諸仏がたが、心を同じくして念仏の一行を選択されたのであります。
余行はそうではありません。ゆえに浄土三部経はすべてともに念仏を選んで宗致とせられることが知られるのであります。

浄土三部経に説かれる称名念仏の一行こそが阿弥陀さま・お釈迦さま・諸仏がたの意の通りの法であり、お浄土に生まれさせていただくために選択された行業であることを示されております。

そして、その功績を「真宗教証興片州 選択本願弘悪世」と讃えられているのであります。

その法然聖人のみ教えのままを親鸞聖人はあきらかにしてくださり、私たちまで届いているのであります。

この悪世の私たちが救われている唯一の道である選択本願念仏を知らせていただいたことをありがたく感じるばかりであります。

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