成等覚証大涅槃 必至滅度願成就 〜「仏になる」のが私の目標。救いを定められた今を前向きにいきましょう〜

成等覚証大涅槃
必至滅度願成就

等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。

この世で仏になることが約束され、いのちが終える時にはかならずお浄土に生まれさせていただき、仏のさとりを開くことができるのは、必至滅度の願(第十一願)が成就されたことによります。

仏教の目標は、往生(仏の世界に生まれること)ではなく、成仏(仏に成ること)であります。

よく見てみると、今回の句では「往生させる」という阿弥陀さまにお誓いを讃えられているのではありません。「成仏させる」というお誓いを讃えられております。

自分の力では決して仏になることのできない私のために、「目指すべきお浄土というはたらき」を阿弥陀さまは与えてくださいました。

お浄土に生まれさせていただき、仏のさとりを開かせていただく。

阿弥陀さまがお誓いになられた四十八の願いのうち、第十一番目の願いによって、それを成し遂げることができるのであり、そのことを讃えられたのが今回の句であります。

阿弥陀さまによって成し遂げさせていただく「等覚」と「大涅槃」

等覚とは、「正定聚」とも「不退転」ともいわれます。

正定聚」とは、お浄土へ生まれさせていただくことが、「正しく定まったなかま」という意味であります。

不退転」とは、決して仏となることが定まった位から退転することのないことを意味します。

そして「大涅槃」とは、仏のさとりを意味します。

ですので、「成等覚証大涅槃」とは、「お浄土へ生まれさせていただくことが決定し、仏のさとりを開くことができるのは」という意味になります。

その答えを、親鸞聖人は「必至滅度願成就」と示されているのがこの句であります。

つまり、この二句は、「お浄土へ生まれさせていただき、仏のさとりを開くことができるのは必至滅度の願(第十一願)が成就されたことによる」という意味であります。

その必至滅度の願(第十一願)とは、次のようなお誓いであります。

設我得仏国中人天不住定聚必至滅度者不取正覚

たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。

ここでは、阿弥陀さまのお浄土に生まれた者は、かならず仏となることが定まっている位につき、かならず滅度(さとり)に至ると誓われております。

しかし、親鸞聖人は仏となることが定まるくらいである正定聚をこの世で得る利益であると示されました。

お浄土に生まれた後ではなく、この世で正しく定まった聚(なかま)になるということであります。これを現生正定聚といいます。

浄土真宗のみ教えは信心を正因とします。

親鸞聖人は、この世で、阿弥陀さまのおはたらきにより、信心が決定するその時ににお浄土に生まれることが定まることをあきらかにされたのです。

主著である『教行証文類』では、

しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。

と、この世で煩悩を抱え罪を造り続けているような方であっても、阿弥陀さまのおはたらきによって、お浄土に生まれることが決定(正定聚)し、仏のさとりをひらく(滅度に至る)ことが示されております。

また、

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。

と、弥勒菩薩はこの上ない最高のさとりを得るのですが、この世で阿弥陀さまのお誓いのままに信心を賜り、お念仏を称える生涯を送られる方も同じく最高のさとりを得ることを示されております。

『正像末和讃』には、

真実信心うるゆゑに
すなはち定聚にいりぬれば
補処の弥勒におなじくて
無上覚をさとるなり

と示されております。

この世で信心を賜り正定聚の位に定まるということは、お浄土に往まれさせていただくことであります。

そして、お浄土に生まれさせていただくことは、仏のさとりを開かせていただくことであります。

このように、必ず滅度に至るという証果を誓われたのが第十一願であるので、必至滅度の願といわれるのであります。

つまり、往生お浄土に生まれる)ことと、成仏仏に成る)こととは言葉の意味は違いますが同義であることあります。そのような往生即成仏である浄土真宗での往生のことを難思議往生といいます。

往生と成仏は同義ではありますが、この世でわずかでも成仏の利益を得るのではありません。今を生きている私が成仏するみ教えではありません。往生することが決定するのは今ありましても、その事態が起こるのはいのちを終える時であります。

往生を決定させていただく私の生き方

この世で阿弥陀さまより信心を賜り、お浄土に生まれさせていただくことが決定しても、見た目には何の変化もありません。

しかし、内面には大きな変化があります。

親鸞聖人は様々な表現で、信心をいただいた念仏者の利益を示されますが、その一つに「常行大悲」とあります。

常に大悲を行ずる」と読みます。この「大悲」とは、阿弥陀さまのお慈悲のことであります。

無縁の慈悲」と言われることもあります。

無縁」とは、「すくいに区別を付けることは無い」ということであります。

どのような方も決して放っておかない。

放っておかないどころか、「救っている」という意識すら阿弥陀さまには存在しておりません。

どのような方に対しても区別することなく「決して見捨てない」と常にはたらき続けておられる阿弥陀さまです。

それでは「常に大悲を行ずる」を、信心いただいたら自ずから実践させていただくとはどういうことでしょうか。

それは、

「他の人とともによろこんでいきたい」

という心であると思います。

「こんなに素敵な教えに出遇えたんだ!聞いてよ!」

そのような気持ちを浄土真宗のみ教えは与えてくれます。

その活動は、私に南無阿弥陀仏が伝わってきたのと同じように、今度は私が南無阿弥陀仏のご縁を伝えさせていただく活動であり、阿弥陀さまのおはたらきを讃えさせていただける活動であります。

「決して見捨てない」という阿弥陀さまのお心を、すべての方とよろこばせていただける。それが、信心を恵まれた念仏者の生き方であります。

そのようなことを知らせていただける「成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」というお言葉は、決していのちを終えるその時の、未来のことではなく、今を生きる私たちのための言葉でありましたね。

みなさまの優しいシェアをありがとうございますm(__)m