合掌する心を持ち合わせていない私が、手を合わせている現実そのものって本当はとても尊いことでした。

「お坊さんの法話」って、

どのようなイメージでしょうか?

「むずかしいお話」

「おもしろくないお話」

そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。

話を聞くことや、

長い文章を読むことに、

疲れを感じる方もおられるでしょう。

ですので、

今ブログでは、

「一口法話」として、

主観的な文章を書いていきます。

みなさまといっしょに、

「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」

そう思えたら素敵だなぁと思います。

合掌

「グー」で殴ることも多いけど、人は「パー」で合掌できる生き物なんです!

みなさまは、生まれて初めて合掌したのはいつか覚えておられますか?

小さいな頃に、祖母や祖父に言われて初めてされた方がおられるかも知れません。

ご飯を食べる時に、近くにいる大人の見よう見まねでされた方がいらっしゃるかも知れません。

人によってキッカケは様々です。

ちなみに、私は全く覚えてないです・・・

一つだけ確かなことは、自分から合掌したのではないでしょうね。

誰かに言われてしたのが最初でしょうね。

自分からしたのなら、少しは記憶にあるのかもしれません。

私は全くありません。

そんなことよりも・・・

今、当たり前のように合掌している現実を不思議に感じます。

だって、人間は手を合わせられる生き物じゃないですよ?

人間は、気付いたら自分の欲望のために行動する生き物じゃないですか。

合掌するのではなく、拳を握って、ふりまわそうとする性根を抱えているのが私たちじゃないでしょうか。だって、人を傷つけることは誰にも教えてもらってなくてもできるのに、教えてもらわないとお礼を言うことはできないですもん。

自分がそのような存在であることは、気付こうと思っても気付けません。

もちろん、人と比較しても自分の優位性を見てしまって気付けません。

そりゃあそうですよね。

欲望を抱える人間同士で比べあっても、比較するだけで何も気付けません。

仏法に出遇わせていただいて初めて気づかされるものです。

手を合わせられる人間じゃない」と、初めて気づかされます。

今、そんな私が当たり前のように合掌させていただいております。

不思議ですよね〜〜〜

合掌の不思議といえば、私はですが、愚痴が溜まっている時も、お仏壇の前で合掌している間はすべてを忘れられます。

なんか、落ち着くんですよね。

みなさまも、そのような経験はございませんか?

合掌している時間、マイナスな感情を忘れさせてくれます。

手を合わす人生って、とても大切なんでしょうね。

人の優しさに触れた時、自然と合掌してしまいます。

そんな時、心がとても楽になるんです。

また、誰かがこちらに向かって合掌してくれている時、ありがたな気持ちになれます。

合掌している人のすがたが、心のゆとりを与えてくれまるように感じます。

一緒にいっぱい合掌しましょうよ!!

毎日のお仏壇での作法を通して、手を合わす癖をつけていきたいですね。

手を合わす回数が増えるにつれ、人への感謝を感じやすくなるのではないでしょうか。

そして、他人とともに笑いあえる人生につながってくるのではないでしょうか。

私自身が、人さまへの感謝や、笑いあえる人生を大切にしなければと思います。

その合わす手も、阿弥陀さまからの賜り物であったと、思わされます。

手を合わせられる時間を大切に、阿弥陀さまの御心を、仏壇以外の場所でも感じ合える、心にゆとりのある人生を送っていきたいですね。

みなさまの優しいシェアをありがとうございますm(__)m