譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 〜煩悩を抱えたそのまま、阿弥陀さまより信心を賜ったすがたそのまま〜

譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇

たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。

(いつも自らの煩悩によって、信心が覆われているようでありますが、)しかし、たとえ日の光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るくて闇がないのと同じように、阿弥陀さまより賜った信心が消え失せることはありません。

前の句では、煩悩によって信心が覆われているようであるという、自身のすがたを述懐されておりました。

今回の句では、煩悩のなくなることのない私であっても、阿弥陀さまのお救いは間違えなく到り届いているよろこびを讃えられております。

かなしみとよろこびは順番にやってくるものではありません。

煩悩にかなしむ心は、そのままお救いをよろこぶ心であります。

そのような気持ちを感じつつ生涯を送らせていただくのが、阿弥陀さまよりご信心を賜った私どもの人生観でありましょう。

阿弥陀さまより信心を賜ったならば、どのような方であっても、何があっても、お救いの障りにはなりません

親鸞聖人は、今回に二句について『尊号真像銘文』に次のように示されております。

「譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇」といふは、日月の雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。

たとえ太陽や月が雲や霧に覆われていても、雲や霧の下は光が届いて明るいように、どこまでも自分に執着する心や他人への怒りといった雲や霧に信心が覆われているようでありましても、阿弥陀さまより賜った信心でありますので、お浄土に生まれさせていただくことに何の支障もありません。

私は、この親鸞聖人の言葉こそ、決して無くなることのない煩悩を抱えて生きる悩ましい私への励ましの言葉のように感じております。

阿弥陀さまより賜ったご信心だから大丈夫!!

もしも、浄土真宗の信心が私のはからいによるものならば、無くなることもあるでしょうが、私の信心は阿弥陀さまより賜ったものであります。

どうしようもない私であることを見抜いた上で、その私をすくい取るために、私の信心までお誓いくださったのですから、決して無くなることはありません。

しかし、たとえ阿弥陀さまより信心を賜りましても、自分中心にあらゆるものを求め貪る心や、自分の都合によって生じる他人への怒りの心は無くなることはありません。

「はやくお浄土に生まれたい!」という気持ちが湧き上がるのでもありません。

本来ならば、何よりもよろこぶべきことでありますが、よろこぶ心が湧き上がってきません。煩悩を抱え、よろこぶべきことをよろこぶことのできない私であることを知らされます。

歎異抄』という書物の中に、親鸞聖人とお弟子の唯円坊との対話が伝えられております。

そこでは、唯円坊が、

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらん

と、念仏を称えていても、お浄土に生まれたいという殊勝な心が出てこない不安を親鸞聖人に問いかけられます。

この問いに対して親鸞聖人は、

親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。

と返されました。

きっと唯円は驚かれたことでありましょう。

浄土真宗のみ教えを明らかにされた師匠の親鸞聖人に向かって、阿弥陀さまのお救いに対する不安を打ち明けられたのです。

しかし親鸞聖人は、「この親鸞もなぜだろうと思っていたのですが、唯円坊よ、あなたも同じ心持ちだったのですね」と、唯円を叱るのではなく、否定するのではなく、唯円坊の悩みを自分の悩みとして引き受けてくださったのであります。

そして続けて、

よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは、煩悩の所為なり。

と、煩悩によって、躍り上がるほどよろこぶべきことをよろこべないことを説かれます。

しかし、私は、よろこべないからこそ往生は間違いないというのは、阿弥陀さまに救われているという確信の言葉であるように感じます。

親鸞聖人はこの言葉に続いて、次のように述べられております。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

そうした、よろこぶべきことをよろこべない私たちであることを、阿弥陀さまははじめから知っておられて、救いの対象をあらゆる煩悩を身にそなえた凡夫の私たちであると仰せになっておられます。阿弥陀さまのお誓いは、このような私たちのために、大いなる慈悲の心で起こされたのだと気づかされ、ますますたのもしく思われるのです。

「よろこぶべきことをよろこべない」ことに対して悲しむだけではなく、そのような私であると見抜いた上でご本願を起こされた阿弥陀さまのお心をよろこばせていただくのが親鸞聖人の生き方であり、救われていることに対する絶対の安心だといえます。

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」と讃えられておりますように、私の煩悩がなくなることはありません。

しかし、闇の中では見えなかった雲や霧が日光によって見えるように、信心を恵まれることにより、煩悩具足の私であると知ることができます。

そして、その煩悩具足のそのまんまが阿弥陀さまの目当てでありますので、煩悩を悲しむだけではなく、ともに「こんな素晴らしいみ教えに出遇えたんだ」ということをよろこぶ生涯を送らせていただきましょう。

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