凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味 〜この世では区別差別はあっても、お救いにはありません。すべての方が同じように救われてゆきます〜

凡聖逆謗斉回入
如衆水入海一味

凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。

凡夫も聖者も、どのように罪の重い五逆の者も、仏法を敵視するような者であっても、阿弥陀さまのお誓いを信ずる身となれば、すべての河川の水が、海に入れば同じ塩味の海水になるように、誰もが同じさとりを得ることができます。

前回の句で説かれておりました「煩悩を抱えたままの阿弥陀さまのお救い」に通じる内容であります。

この世界でどのような生き方をしてこられた方であっても、阿弥陀さまより信心を賜ったならば、誰もが同じさとりを得ることができます。

この二句では、そのような、阿弥陀さまのおはたらきによって同じように救われていくという「平等一味の益」を示されております。

阿弥陀さまのおはたらきに区別差別はありません。誰もが平等に救われていきます

親鸞聖人は『尊号真像銘文』という書物の中で、次のように示されております。

「凡聖逆謗斉回入」といふは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提、みな回心して真実信心海に帰入しぬれば、衆水の海に入りてひとつ味はひとなるがごとしとたとへたるなり。これを「如衆水入海一味」といふなり。

凡聖逆謗斉廻入」 というのは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・一闡提などのさまざまなものが、自力の心をあらためて真実信心の海に入れば、みな等しく救われることを、どの川の水も海に入ると一つの味になるようなものであるとたとえているのであります。
そして、このことを 「如衆水入海一味」 というのであります。

凡聖逆謗」の意味を説明するのに、様々な言葉が使用されております。

一つの言葉では説明できないものであることがわかりますが、それだけではなく、あらゆる方向から説明することによって、すべてのいのちが救われていくことを親鸞聖人は明らかにしたかったのではないでしょうか。

「凡聖逆謗」という言葉の意味

親鸞聖人が『尊号真像銘文』に示された「凡聖逆謗」の意味を確認してみましょう。

小聖
仏さまのことを大聖というのに対しております。「小乗」という仏となっていない聖者や菩薩のことであります。

凡夫
煩悩を抱えた愚かなものという意味であります。今は人としていのちを授かっておりますが、本当は迷いの中のいる私たちのことであります。

五逆
五種類の重罪のことでありますが、一般的には次のような五逆を示されます。
殺父(父を殺す)
殺母(母を殺す)
殺阿羅漢(阿羅漢の聖者を殺す)
出仏身血(仏の身体を傷つけて出血させる)
破和合僧(教団の和合を破壊し分裂させる)

謗法
仏の教えを邪魔者使いしてそしり、正しい真理をないがしろにするもののことであります。

無戒
戒律がないことであります。

一闡提
世俗の快楽ばかりを求めて、さとりを求める心がなく、成仏できないいのちのことであります。

このように、聖者や凡夫や悪人など、さまざまな人を挙げられております。

しかし、親鸞聖人は「誰も救われる人がいない」と言いたいのではなく、どのような人であっても、阿弥陀さまにより信心を賜った方ならば、必ず平等に救われていくという絶対のお救いを讃えられているのではないでしょうか。

親鸞聖人が七高僧のお言葉から阿弥陀さまのお救いを讃え詠まれた『高僧和讃』では、

名号不思議の海水は
逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば
功徳のうしほに一味なり

と、名号南無阿弥陀仏の功徳はなにものにも邪魔されることはなく、どのような悪人もすべて同じ仏のさとりを得ることを讃えられております。

親鸞聖人は、よく「海」という言葉を使用されております

広大な功徳をあらわすために比喩として使用されている「海」の字について主著である『教行証文類』に、

「海」といふは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、経に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水となる」とのたまへるがごとし。{以上}願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。

「海」 というのは、はかり知れない昔からこれまで、凡夫や聖者の修めたさまざまな自力の善や、五逆・謗法・一闡提などの限りない煩悩の水が転じられて、本願の慈悲と智慧との限りない功徳の海水となることであり、これを海のようであると喩えるのであります。
これによってまことに知ることができました。天親菩薩のお書きになられた『浄土論』に「煩悩の氷が解けて功徳の水となる」と説かれている通りであります。
阿弥陀さまのお誓いである本願の海は声聞や縁覚の自力の善の死骸を宿しません。まして神々や人々のよこしまないつわりの善や煩悩の毒のまじった自力の心の死骸などを宿すはずないでしょう。

親鸞聖人は、「正信念仏偈」の中で「群生海」というように、海という漢字を用いてあらゆるいのちのすがたを示されることもあります。

しかし、今回の二句では、「海」という言葉でどのような煩悩も関係なく、どんな悪業も残ることなく、すべてのいのちをさとりの智慧と慈悲に転ずる阿弥陀さまのご本願の功徳を示されております。

すべてのいのちを何の区別もなく救いとるという、どこまでも広く、かぎりなく深い阿弥陀さまの広大な功徳をあらわすのには、海のようにはかりようの無いものでなくては無理ですよね。

阿弥陀さまの無限の功徳の中に、今、南無阿弥陀仏とお念仏もうしながら日々を過ごしているお互いさまで本当によかったですよね。

親鸞聖人が私たちに向かって、「凡聖逆謗斉回入」と、本願の海に入ることを勧めておられますように、阿弥陀さまより同一の信心を賜り、広大な功徳の中にいるという安心感のもと、ともに前向きな日々を過ごさせていただきましょう。

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