『仏説観無量寿経』の「九品」では、資質や能力で救われ方も変わっていく?

『仏説観無量寿経』には、お浄土に生まれたいという方々を「上品」「中品」「下品」の三種類に分類し、さらにそれぞれの中で「上」「中」「下」と、資質や能力で九種類に分類されております。

それぞれどのような方なのでしょうか。

『仏説観無量寿経』には次のように説かれております。

上品上生といふは、もし衆生ありて、かの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。


上品中生といふは、かならずしも方等経典を受持し読誦せざれども、よく義趣を解り、第一義において心驚動せず。深く因果を信じて大乗を謗らず。


上品下生といふは、また因果を信じ大乗を謗らず。ただ無上道心を発す。


中品上生といふは、もし衆生ありて、五戒を受持し、八戒斎を持ち、諸戒を修行して、五逆を造らず、もろもろの過患なからん。


中品中生といふは、もし衆生ありて、もしは一日一夜に八戒斎を受持し、もしは一日一夜に沙弥戒を持ち、もしは一日一夜に具足戒を持ちて、威儀欠くることなし。


中品下生といふは、もし善男子・善女人ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ぜん。


下品上生といふは、あるいは衆生ありて、もろもろの悪業を作らん。方等経典を誹謗せずといへども、かくのごときの愚人、多く衆悪を造りて慚愧あることなけん。


下品中生といふは、あるいは衆生ありて、五戒・八戒および具足戒を毀犯せん。かくのごときの愚人、僧祇物を偸み、現前僧物を盗み、不浄説法して、慚愧あることなく、もろもろの悪業をもつてみづから荘厳す。


下品下生といふは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。

難しいので、わかりやすくしてみましょう^^;

『仏説観無量寿経』の「九品」はそれぞれどのような方なのでしょうか

上品上生
至誠心、深心、廻向発願心という三種類の心を起こされる方。

上品中生
大乗の経典をしっかりと読まないが、意味をよく理解しており、真実の道理を聞いても驚き戸惑うようなことはなく、因果の道理を信じて大乗のみ教えを貶すことのない方。

上品下生
因果の道理を信じて大乗のみ教えをけなすこともなく、ひたすらこの上ないさとりを求められる方。

中品上生
五戒や八斎戒などの戒律を守り、悪の罪を作ることのない方。

中品中生
一日一夜の間、五戒や八斎戒を守り、乱れた行いを起こすことのない方。

中品下生
両親に孝行し養い、世間の方々に思いやりの心を持つ方。

下品上生
大乗の経典をけなすようなことはしないが、多くの悪い行いをしても恥じることがない方。

下品中生
五戒や八斎戒や具足戒を守らず、仏教教団のものや僧侶に施されたものを盗み、私利私欲のためにみ教えを説いて少しも恥じることがない方。

下品下生
もっとも重い五逆や十悪といった罪を犯し、あらゆる悪事を行なっている方。


つまり、次のように分類されていることになります。

  • 「上品」は大乗のみ教えを信じる方々。
  • 「中品上生・中生」は戒律を守ることのできる方々。
  • 「中品下生」は世間的に良い行いのできる方。
  • 「下品」は修行も戒律を守ることもできない方々

そして、それぞれの方々が救われてゆく有様を説かれております。

それにしても、修行や戒律を守らないばかりか、あらゆる悪事のみをはたらき続ける「下品下生」の方が本当に救われるのでしょうか?

もしも、このような方々が救われてゆくならば、他の方々が救われてゆくことは疑いようのないことでありましょう。

そこで、「下品下生」の方が救われていく様子を窺ってみたいと思います。

どのような方も救われてゆく唯一つの真実

『仏説観無量寿経』には、次のように説かれております。

かくのごときの愚人、命終らんとする時に臨みて、善知識の、種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終る時、金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくに、すなはち極楽世界に往生することを得。

このような愚かな方がいのちを終えようとする時、善知識にめぐりあい、尊いみ教えを聞き、仏を念じること聞かせていただきます。しかし、命が終える苦しみによって教えられた通りに仏を念じることができません。そこで善知識は、「もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい」と勧めました。その言葉を聞いて、心から南無阿弥陀仏と称えるました。一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれたのでした。そしていよいよその命を終える時、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れ、たちまち極楽世界に生まれることができるのであります。

修行も戒律のできず、地獄に向かっている「下品下生」の方であります。

いのちを終えようとする時に、教えられた通りに仏を念じることもできません。

本来ならば決して救われるはずはないのですが、ただ口に阿弥陀さまのお名前を称えるだけで救われてゆくことが説かれております。

そしてさらに、『仏説観無量寿経』の最後の方に次のように説かれております。

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。仏、阿難に告げたまはく、「なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。

「お念仏を称える方がおられましたら、その方は泥に咲く白蓮華のように尊い方であります。観世音菩薩と・大勢至菩薩がすぐれた友となってくださり、無量寿仏の国に生れることができます」
お釈迦さまはさらに仰せになりました。
「このことをしっかりと心にとどめておきなさい。このことというのは、無量寿仏の名を心にとどめよということであります」

ここで、お念仏を称えながら人生を歩まれる方を、「白い蓮華のお花」に喩えられております。

真っ黒な泥の中で、泥に染まらず美しく白く咲き誇るのが白い蓮華のお花であります。

誰もが自分の欲望のためにお互いに傷つけ合っている世の中であります。

戯言や綺麗事ばかりで、私からは真実は出てきません。

そのような私が救われてゆく唯一つの道である「南無阿弥陀仏」という真実を、何より高貴な白い蓮華のお花に喩えずにおれなかったのでありましょう。

そしてさらに次のように説かれております。

「なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」

ただ南無阿弥陀仏ひとつを心にとどめる人生を送らせていただくということを、『仏説観無量寿経』の結論のように説かれております。

『仏説観無量寿経』では、仏を観ずる様々な修行が説かれます。

しかし、この経典が説かれた真意は「下品下生」さえ救われてゆく「南無阿弥陀仏ひとつのお救い」でありましょう。

南無阿弥陀仏ひとつを心にとどめるという、何よりの私の支えとなる人生を、共に送らせていただきましょう。

 

 

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