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法蔵菩薩因位時
在世自在王仏所
法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、
阿弥陀さまが、まだ因位の菩薩としての修行時代に、法蔵と名乗っておられた時、世自在王仏のもとで、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という、「ただ、疑いようのない阿弥陀さまの御心のままにおまかせするばかりであります」という、阿弥陀さまより賜った親鸞聖人の信心のありさまに続く句であります。
ここからは、お釈迦さまによって説かれた『仏説無量寿経』という経典に依って、阿弥陀さまのお救いを称えられるので、「依経段」と呼ばれております。

「依経段」で讃えられる『仏説無量寿経』こそが浄土真宗の根本となる経典であります
『仏説無量寿経』とは、浄土真宗の宗祖であります親鸞聖人が最も重要視された経典のことであります。
親鸞聖人は、主著である『教行証文類』に、次のように示されております。
すなはち『大無量寿経』これなり。
『大無量寿経』とは『仏説無量寿経』の別名であります。その他、『無量寿経』、『大経』といわれることもあります。
親鸞聖人は、この『仏説無量寿経』こそが真実の教えであると示されました。
『仏説無量寿経』には、「すくわれ難い私を救うために、あらゆるいのちをすくうための願いを起こし、願いが成し遂げられたままに、私を救おうとはたらき続けておられる」という、「仏願の生起本末」が説かれております。
『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の三つの経典に、阿弥陀さまのお救いが説かれておりますので、合わせて「浄土三部経」といわれております。
その「浄土三部経」の中でも、「仏願の生起本末」が説かれているのは『仏説無量寿経』だけであります。
その「仏願の生起本末」を疑いなく、そのまま聞かせていただき、お浄土に参らせていただき仏のさとりを開かせていただくのが浄土真宗というみ教えであります。
なので、「仏願の生起本末」が説かれた『仏説無量寿経』こそが浄土真宗の根本聖典であります。

『仏説無量寿経』に説かれた法蔵菩薩(修行時代の阿弥陀さま)

『仏説無量寿経』には、次のように説かれております。
ここでは、世自在王仏の説法を聞いて深くよろこび、この上ないさとりを求める心を起こし、国も王位も捨て、出家して修行者となった「法蔵菩薩」という方がいたことを説かれております。
この「法蔵」とは、「法蔵菩薩因位時」の法蔵菩薩のことであり、「世自在王仏」とは、法蔵菩薩を指導された仏さまのことであります。

ですので、「世自在王仏」は「法蔵菩薩」のお師匠さまと捉えた方がわかりやすいと思います。
法蔵菩薩が世自在王仏の説法を聞かれた後、世自在王仏のそばに行き、仏足をおしいただき、 三度右まわりにめぐり、 地にひざまずいてうやうやしく合掌し、 世自在王仏のお徳をほめ讃えられました。
その内容が、現在ではお経として親しまれている「讃仏偈」というお経であります。その「讃仏偈」では最初に、
光顔巍々として、威神極まりなし。
と、世自在王仏のお徳を讃えられた後、
願はくは、われ仏とならんに、聖法王に斉しく、生死を過度して、解脱せざることなからしめん。
と、自身の願いを述べられます。
その願いとは、このような仏になりたい(摂法身)、こういう浄土にしたい(摂浄土)、人々をこういう身に育てたい(摂衆生)という「三摂の顔」であります。
そして、
幸はくは仏(世自在王仏)、信明したまへ、これわが真証なり。願を発して、かしこにして所欲を力精せん。十方の世尊、智慧無礙にまします。つねにこの尊をしてわが心行を知らしめん。
と、必ず願いを果たし遂げ、智慧の勝れた諸仏にも志を心に留めていただくことを述べ、
たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ
と、どのような苦難があろうとも、さとりを求めて耐え忍んで修行に励み、決して悔いることはないことを示されております。
「讃仏偈」とは、文字通りですと「世自在王仏を讃える偈」という意味であります。
しかし、そこには、
「あらゆるいのちを救いたい」
という法蔵菩薩の決心が示されております。
「讃仏偈」をお勤めさせていただく時、法蔵菩薩の強い決心をいただきたいものです。

「讃仏偈」は、浄土真宗の御門徒さまは様々な場面で読経する機会がありますが、仏さまに向かって捧げるお経ではありません。
捧げるのとは反対に、「讃仏偈」を通して、阿弥陀さまの因位である法蔵菩薩の願いの強さを受け取らせていただくべきであります。
「救われるはずのない私」のための法蔵菩薩の願いと、その決心の強さが「讃仏偈」に示されております。
お経を読むとは、「阿弥陀さまのお心を聞くこと」であります。
そのことをみなさまと実感できればと思います。
そうすれば、勤行の一つひとつが阿弥陀さまのおすくいを味わうご縁であったことを知らされていくのでしょう。
そう思わせていただけるほどの、法蔵菩薩の願いの中にいるお互いで良かったですよね。
そんなことをお参り中に思わせていただく今日であります。