庄松さんのお救いをよろこぶ生涯は、お救いを伝える生涯でもあります

「伝道者」とは、

「阿弥陀さまのお救いを伝える方」のことです。

それは、「阿弥陀さまのお救いをよろこぶ方」です。

庄松さんは、

「阿弥陀さまがいてくれる!」

というよろこびの生涯でありましたが、

自然と伝道活動になっておりました。

阿弥陀さまのお誓いのもとでは、すべてのいのちに区別はありません

「何がもったいない。御の字まだまだ沢山付けてもいいわい。おらに付けたのならもったいないが、如来の御誓いに付けたのなら、なんぼつけてもよいわい」

ある人が「御開山が、こんな浅ましき奴に御同行御同朋などとはもったいない」と言うと、庄松さんは「何がもったいない。御の字まだまだ沢山付けてもいいわい。おらに付けたのならもったいないが、如来の御誓いに付けたのなら、なんぼつけてもよいわい」と言われました。

御同朋・御同行」とは、「ともに阿弥陀さまを心の拠り所とし、ともにお念仏称えて生きる仲間」という意味であります。

浄土真宗本願寺派八代目宗主の蓮如上人は、『御文章』というお手紙の中で、次のように示されております。

故聖人の仰せには、 「親鸞は弟子一人ももたず」 とこそ仰せられ候ひつれ。 「そのゆゑは、 如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、 ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。 さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、 如来の教法をわれも信じ、 ひとにもをしへきかしむるばかりなり。 そのほかは、 なにををしへて弟子といはんぞ」 と仰せられつるなり。さればとも同行なるべきものなり。 これによりて、 聖人は 「御同朋・御同行」 とこそ、 かしづきて仰せられけり。

決して念仏者の中に上下関係を作らず、ともに仏の弟子であるという、親鸞聖人の御心を示されています。

特に「かしづきて」という言葉に、私自身、自分のすがたについて考えさせられます。

この「かしづきて」という言葉には、「心から大切にして。敬愛して」という意味があります。

親鸞聖人は、自分自信と同じように念仏称える生活を送る方々への敬いの気持ちを大切にされていたんでしょうね。

そして、念仏者の集いを大切にされていたのだと感じます。

普通に生活していると、気付いたら人と人を区別して、善悪や優劣を付け合い、互いに傷つけ合う。

そんな私に、「御同朋・御同行」たらしめてくださっているのが阿弥陀さまであります。

庄松さんの「おらに付けたのならもったいないが、如来の御誓いに付けたのなら、なんぼつけてもよいわい」という言葉に、区別をつけ合う私たちが「ともに阿弥陀さまを心の拠り所とし、ともにお念仏称えて生きる仲間」たらしめられる阿弥陀さまの御心を味わっていきたいものです。

「お前さえここから上がるではないか」

庄松さんが住職のお供で『浄土三部経』の仏事に向かわれた時のお話です。
住職が玄関より家に入ったので、庄松さんもついて入ろうとしましたところ、住職は「お前は台所の方より入れ」と言いました。すると、『浄土三部経』を持つ庄松さんは「お前さえここから上がるではないか」と言われました。

先ほどの話の、「御同朋・御同行たらしめてくださっているのが阿弥陀さま」であることが伝わってくる言動ではないでしょうか。

浄土三部経』には、「阿弥陀さまのすくい」が説かれています。

阿弥陀さまのすくいの説かれた『浄土三部経』こそが中心であり、住職も庄松さんもお供にすぎません。

人と争いそうになる時、阿弥陀さまのおすくいのもとでは同じであった

そのような感情が心を落ち着かせてくれるのかも知れません。

相手の欠点を探すのではなく、お互いに欠点だらけだったと思うことが大切なのかも知れません。

すくいを中心に私のすがたを見させていただく。ということも、浄土真宗を聞く者として大切にしていきたいものです。

念仏者の生活は、返しきれない阿弥陀さまへの御恩を思わせていただく生活です。

しかし、返しきれないからといって何もしなくていいという教えではありません。

恩を返すのではなく、恩を報じていく報謝の生活を歩んでいきます。

念仏者だからと生き方を定められることはありません。ただ阿弥陀さまのお救いをよろこぶ人生であります

「おらはそんな難しきことは知らぬ。お前はお前の持ったまま暮らせ。おらはおらだけで暮らす。そんなこと聞いて何になる」

ある人が「庄松はん、如来の御恩ということは何ともないが、真実領解ができたら、御恩の日暮らしができますか」と庄松さんに尋ねますと、「おらはそんな難しきことは知らぬ。お前はお前の持ったまま暮らせ。おらはおらだけで暮らす。そんなこと聞いて何になる」と答えられました。

この話に出てくる「浄土真宗の教えをしっかり理解できたら、御恩報謝の生活ができますか?」という、ある人の質問には、現代に通じる大きな問題があります。

それは、「浄土真宗の教えをしっかり理解しないといけないのではないか?」という事です。

阿弥陀さまは、「理解できたらすくう」とは誓われておりません。

そのまますくう」のお誓いです。

「そのまますくう」という阿弥陀さまの御心をはからいなく受け取らせていただく事を信心といいます。

庄松さんは、「おらはそんな難しきことは知らぬ」と言われ、頭で理解しようとする私の心を否定されております。

庄松さんがここで言いたかったことは、

「阿弥陀さまの御心があるからこそ、安心して生きることができる。阿弥陀さまは私の行動を限定されなかった。日頃の生活の中で、阿弥陀さまの御心を思わせていただくことが、自然と報謝の生活になっていくのじゃ」

ということであります。

勉強できるかどうかを他人と比べ、傷つけ合うことよりも、本当に私が阿弥陀さまの御心を受け取っているか。

自分自身に問い続けることが必要なのではないでしょうか。

人に聞いて迷いを深めていくのではなく、私と阿弥陀さまの関わりを大切にしたいですね。

次の話でも、そのことを強く思い知らされます。

「佛照寺様も、得雄寺様も、御浄土は持ちてござらぬ。その持ってござらぬ人の言う事に迷わずと、御浄土を持ちてござる、佛の仰せに順ふより、他に手はない」

川東村の勝光寺の坊守さまは御法義について必死に学ばれていました。
ある時、坊守さまは佛照寺と得雄寺に、学んでいる御法義に間違いがないか聞きに伺いました。
すると、御法義の受け取り方について、佛照寺は良いと褒められたのに、得雄寺は悪いと貶しめられたので、坊守さまが心配し庄松さんに尋ねることにしました。すると庄松さんは「佛照寺様も、得雄寺様も、御浄土は持ちてござらぬ。その持ってござらぬ人の言う事に迷わずと、御浄土を持ちてござる、佛の仰せに順ふより、他に手はない」と諭されました。

浄土真宗のみ教えの「勉強」は、親鸞聖人の書物や、多くの先生の参考書がありますので、意味を捉えたり正解を探しやすい時代かも知れません。

しかし、聖教の御心を受け取らせていただく浄土真宗のみ法義の「味わい」には正解はありませんので、誰もが同じではありません。

人それぞれです。

上の話で出てくる坊守さまは、きっと「味わい」について佛照寺と得雄寺に尋ねたのでしょう。すると違う答えが返ってきた。坊守さまは真剣に浄土真宗を学ばれていたからこそ、迷いが深くなる。

それを見かねた庄松さんは、

佛照寺様も、得雄寺様も、御浄土は持ちてござらぬ。その持ってござらぬ人の言う事に迷わずと、御浄土を持ちてござる、佛の仰せに順ふより、他に手はない」と言われました。

「生きとし生けるいのちをすくい取りたい」という願いのままに、私たちが目指すべき場所としての浄土を作られ、今、「そのまますくう」と私にはたらき続けている阿弥陀さまであります。

その御心は人によって様々に味わわれますが、坊守さまの味わいも大切にすべきであるとの、庄松さんの諭しであるように思われます。

また、私たちがもし人に尋ねられた時、人の味わいを否定することはなるべく控えたいものです。

浄土真宗のみ教えと明らかに相違があるならば致し方ありませんが、同じ阿弥陀さまのはたらきの「味わい」は誰もが同じにはなりません。

人それぞれ歩んできた人生が違いますので、むしろ他人の味わいを否定せず、受け取りつつ、「ともに味わっていきましょう」という想いが大切だと思われます。

今回の庄松さんの言葉のように、「阿弥陀さまに聞くより他に手はない」という言動は多く残されております。

「阿弥陀さまを知る」のではなく、「阿弥陀さまを憑む」

「憑む」とは、「たのむ」と読みます。

「私が頼む」という意味ではなく、「阿弥陀さまのお救いに疑いなくたのむ」という意味であります。

阿弥陀さまが「かならず救う」と仰っておられるのですから、私から頼む必要はありません。

ただ「ありがとうございます」と、我が身を委ねて「憑む」のみであります。

「お前は弥陀をたのんだことがないようだな、如来をたのんでみよ」

勝次郎が庄松さんに「如来をたのむとはどういう事か」と尋ねますと、庄松さんは「お前は弥陀を頼んだことがないようだな、如来を頼んでみよ」と言われました。

「そことも、そことも」

ある人が、「庄松はん、たのむ一念一口聴かせて」と尋ねますと、庄松さんは「なにおらが知るものか」と言いながら仏壇を指差されました。その人、「そうであったか、たのむ一念は佛仕事であったか、嬉しいのう」と言うと、庄松さんは「そことも、そことも」と言われました。

上の二つの言動に共通して、「たのむ」という言葉があります。

この「たのむ」とは、私の想いを伝えようとする「頼む」という漢字の意味ではありません。漢字では「憑む」と書きます。

この漢字には「よりかかる、たのみにする」といった意味があります。

つまり、「我にまかせよ、かならず助ける」と私にはたらく阿弥陀さまに疑いなく「お任せする」ことであります。

決して私からお願いしようとする「頼む」ではありません。

私が「頼む」前から、「そのままたすけるぞ」と私にはたらき続けておられる阿弥陀さまです。

その阿弥陀さまの御心のままに、ただ「お任せさせていただく」ばかりです。

そのような、「そのままのおすくい」について、庄松さんと子ども達のユニークなお話があります。

「そのままたすくるぞ、そのままたすくるぞ」

庄松さんの墓地を管理している庵原氏が、祖父より聞き伝えられた話です。
庄松さんはいつも子ども達に、「そのままたすくるぞ、そのままたすくるぞ」と言わして、それを聞いてよろこび、必ず子どもに菓子を与えていたそうです。

この話での庄松さんは、きっと、子どもの声を阿弥陀さまの喚び声と受け取られていたんでしょうね。

管理人自身、僧侶として活動させていただいておりますが、

子どもに阿弥陀さまの御心を伝える」のではなく、「子どもから阿弥陀さまの御心を聞く」という庄松さんの伝道姿勢を大切にしていきたく思います。

合掌

みなさまの優しいシェアをありがとうございますm(__)m